葉隠 / 聞書第十一
病人には氣草臥れ、大病になるものなり。斯様の病人は、氣を引立て候事肝要に候。祈禱願力にて奇特などこれある時、きほひ出來申し候。常々法號眞言など唱へさせ候へば、氣轉じ病氣忘るゝものなり。軍書の内勇勢の所、驢鞍橋など、きほひ候て讀み聞かせ候へば、ふと心に乘り、引上ぐる氣質出來、本復するものなり。
新字:病人には気草臥れ、大病になるものなり。斯様の病人は、気を引立て候事肝要に候。祈禱願力にて奇特などこれある時、きほひ出来申し候。常々法号真言など唱へさせ候へば、気転じ病気忘るゝものなり。軍書の内勇勢の所、驢鞍橋など、きほひ候て読み聞かせ候へば、ふと心に乗り、引上ぐる気質出来、本復するものなり。
書き下し
病人には気草臥(きくたび)れ、大病になるものなり。斯様(かよう)の病人は、気を引立(ひきた)て候事肝要(かんよう)に候。祈禱(きとう)願力(がんりき)にて奇特(きどく)などこれある時、きほひ(気追ひ)出来申し候。常々(つねづね)法号(ほうごう)真言(しんごん)など唱へさせ候へば、気転じ病気忘るゝものなり。軍書の内勇勢(ゆうせい)の所、驢鞍橋(ろあんきょう)など、きほひ候て読み聞かせ候へば、ふと心に乗り、引上(ひきあ)ぐる気質(きしつ)出来、本復(ほんぷく)するものなり。
現代語訳
病人は気力が萎えて、大病になってしまうものだ。こうした病人は、気力を奮い立たせてやることが肝心である。祈禱の願力によって霊験があらわれるようなとき、気力が湧いてくるものだ。ふだんから法号や真言などを唱えさせれば、気分が変わって病を忘れるものである。軍記物の中の勇ましい場面、たとえば『驢鞍橋』などを、勢いをつけて読み聞かせてやれば、ふと心が引き立ち、気力を奮い起こす気質が生まれて、快復するものだ。
解説
病は気からという発想を踏まえ、病人の回復には気力を奮い立たせることが肝心だと説く一条です。祈禱や念仏、真言を唱えさせて気を紛らわせ、さらに軍記物の勇ましい場面を勢いよく読み聞かせれば、萎えた心が引き立って快復に向かう、という具体的な養生法が語られています。医学的な治療というより、精神の張りが身体に及ぼす力に着目した知恵です。現代でも、前向きな気持ちや張り合いが回復を後押しすることは知られており、闘病における心の支えの大切さに通じます。落ち込んだ人にどう気力を取り戻させるか、という点は看病や励ましの場面にも応用でき、心と身体のつながりを重んじた実際的な教えといえます。
この章句が説くこと
葉隠病は気から気力養生看病精神と身体
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