葉隠 / 聞書第十一
人は立ち上る所なければ物にならず。人より頭を踏まれ、ぐづ〳〵として一生を果すは口惜しき事なり。誠に夢の間なるに、はつきりとして死に度きことぞかし。ここに眼の附く者稀なり。在家も出家も、當時何某々々家老年寄役にて御用に立ち、何和尚々々々一派を持ちて居るを見て、「彼も人なり、鬼神にてはなし、少しも劣るべき謂はれなし、若し誰々を突つ立て上れば、卽座に上は手になることなり。斯様に突つ切つて跨破ること成りがたく、志は有りても、何やかや取附きて、埒明きがたき時もあり。一念發起すれば則ち立ち上ることなり。左様の時、手に吹毛劍を握り、觸荊する所剋却せざるなし。」と云ふ句などを力にすべしと。
新字:人は立ち上る所なければ物にならず。人より頭を踏まれ、ぐづ〳〵として一生を果すは口惜しき事なり。誠に夢の間なるに、はつきりとして死に度きことぞかし。ここに眼の附く者稀なり。在家も出家も、当時何某々々家老年寄役にて御用に立ち、何和尚々々々一派を持ちて居るを見て、「彼も人なり、鬼神にてはなし、少しも劣るべき謂はれなし、若し誰々を突つ立て上れば、即座に上は手になることなり。斯様に突つ切つて跨破ること成りがたく、志は有りても、何やかや取附きて、埒明きがたき時もあり。一念発起すれば則ち立ち上ることなり。左様の時、手に吹毛剣を握り、触荊する所剋却せざるなし。」と云ふ句などを力にすべしと。
書き下し
人は立ち上る所なければ物にならず。人より頭を踏まれ、ぐずぐずとして一生を果すは口惜しき事なり。誠に夢の間(ま)なるに、はっきりとして死にたきことぞかし。ここに眼(め)の附く者稀(まれ)なり。在家(ざいけ)も出家も、当時何某(なにがし)何某家老年寄役にて御用に立ち、何和尚(なにおしょう)何和尚一派を持ちて居るを見て、「彼も人なり、鬼神にてはなし、少しも劣るべき謂(いわ)れなし、もし誰々を突っ立て上(あ)がれば、即座に上(うえ)は手になることなり。斯様(かよう)に突っ切って跨破(こは)ること成りがたく、志は有りても、何やかや取り附きて、埒(らち)明きがたき時もあり。一念発起(いちねんほっき)すれば則ち立ち上ることなり。左様の時、手に吹毛剣(すいもうけん)を握り、触荊(しょくけい)する所剋却(こくきゃく)せざるなし。」と云う句などを力にすべしと。
現代語訳
人は奮い立つところがなければ、ものにならない。人に頭を踏みつけられ、ぐずぐずと一生を終えるのは悔しいことだ。人生などまことに夢のような一瞬なのだから、はっきりと立派に生き切って死にたいものだ。だが、このことに気づく者はまれである。世俗の者も僧も、今どこそこの誰それが家老・年寄役として御用に立ち、どこそこの何和尚が一派を構えているのを見て、「あの人も同じ人間だ、鬼神ではない、自分が少しも劣るいわれはない。もし奮い立って突き進めば、たちまち上に立つ者を追い越せるのだ。しかしこう思い切って突き抜けるのは難しく、志はあっても、あれこれに引っかかって物事が進まないときもある。だが、ひとたび一念発起すれば、必ず立ち上がれるのだ。そのときは、手に鋭い吹毛剣を握り、行く手の茨(いばら)に触れればことごとく断ち切るように、障害を打ち破れないものはない」――こうした言葉を心の支えとすべきだ、と。
解説
この章句が説くこと
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葉隠・聞書第十一人のたけは、九分十分(くぶじゅうぶ)と申し候えども、何段(なんだん)ほどこれあるものに候や、無量(むりょう)のものなり。これ迄(まで)と思い一つ所に滞(とどこお)り自慢などする事、なかなか卑(いや)しき位(くらい)なり。歌に、いずくにも心とまらば住みかえよ ながらえば又もとの古里(ふるさと)、かくの如くに、又住みかえ住みかえせずしては、人並にもなるまじく候。我がたけ少し上り候時ならでは、無量事(むりょうごと)は存ぜぬものなりと。
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葉隠・聞書第十一必死の観念、一日仕切(ひとひじき)りなるべし。毎朝身心(しんしん)をしづめ、弓、鉄砲、槍、太刀先(たちさき)にて、すたすたになり、大浪(おおなみ)に打取られ、大火の中に飛入(とびい)り、雷電(らいでん)に打ちひしがれ、大地震にてゆりこまれ、数千丈(すうせんじょう)のほき(崖)に飛込み、病死頓死(とんし)等死期(しご)の心を観念し、朝毎(あさごと)に懈怠(けたい)なく、死して置くべし。古老曰く、「軒を出づれば死人の中、門を出づれば敵を見る。」となり。用心の事にはあらず、前方(まえかた)に死を覚悟し置く事なりと。
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葉隠・聞書第一武士はいつも勇み進みて、物に勝ち浮かぶ心がないと用に立たぬなり。人の難(なん)に逢うたる折、見舞(みまい)に行きて一言(ひとこと)が大事のものなり。その人の胸中(きょうちゅう)が知るる知るるものなり。とかく武士はしおたれ、草臥(くたび)るる草臥るるは疵(きず)なり。勇み進みて、物に勝ち浮かぶ心にてなければ、用に立たざるなり。人をも引き立つる事これあるなり。
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葉隠・聞書第一古川六郎左衛門申し候は、「主人として用に立つ者をほしがらぬ主人はこれなく、我がほしきと兼々(かねがね)存ずるものを人が呆れ、然る処に、何とぞ御用に立ち度(た)しと思ふことは、御用に立つものなり。此のあたりを諸人気が附き申さず、一生をむだに暮すこと、老後に漸(ようや)く存じ附き候。若き衆、油断あるまじ。」と申され候。耳に留めて覚え居り候。何角(なにかく)の分別を止めて、唯御用に立ち度しと思ふ迄の事なり。此くの如く思ふまじき事にてはなけれども、色々阻(へだ)てものが有りて、打ち破らぬ故、あたら一生をむだに暮すは、返す返す残念の事なり。我等式(われらしき)は何として御用に立つべきと、卑下の心にて暮らすもあり。御用に立ち度き真実さへ強ければ、不調法者程かよきなり。小身にして田舎などに居る者は、家老年寄などと云ふは、神変不思議にてもある様に、思ひのぼせて寄りも附き得ず、親しくなりて心安話(こころやすばなし)などして見るに、不断御用の事を忘れず、歎かるゝより外に替りたること少しもなし。御用の筋に、左程(さほど)奇妙の智慧は入らぬものなり。何とぞ、殿の御為、御家中、民百姓迄の為になる事をと思ふことは、愚鈍の我々式にても済むものなり。されども、御用に立ち度しと思ふことが、いから成りにくきものなり。
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葉隠・聞書第十一万能一心、武士たる者は、生死を離るべき事。生死を離れねば何事も役に立たず。心と云うも、有心(うしん)のように聞こゆれども、実は生死を離れたることとなり。その上にて、如何様(いかよう)の手柄もさるるものなり。芸能などは道に引き入るる縁近(えんちか)なり。
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葉隠・聞書第二貴(き)となく賤(せん)となく、老となく少(しょう)となく、悟りても死に、迷いても死に、さても死ぬ事かな。我人(われひと)、死ぬと言う事知らぬではない。ここに奥の手あり。死ぬと知っては居るが、皆人(みなひと)死に果ててから、我は終わりに死ぬ事の様に覚えて、今時分にてはなしと思うて居るなり。何もかも役に立たず、夢の中のたわぶれなり。斯様(かよう)に思いて油断してはならず。