葉隠 / 聞書第十一
人のたけは、九分十分と申し候へども、何段ほどこれあるものに候や、無量のものなり。これ迄と思ひ一つ所に滯り自慢などする事、なか〳〵卑き位なり。歌に、いづくにも心とまらば住みかへよながらへば又もとの古里、かくの如くに、又住みかへ〳〵せずしては、人並にもなるまじく候。我がたけ少し上り候時ならでは、無量事は存ぜぬものなりと。
新字:人のたけは、九分十分と申し候へども、何段ほどこれあるものに候や、無量のものなり。これ迄と思ひ一つ所に滞り自慢などする事、なか〳〵卑き位なり。歌に、いづくにも心とまらば住みかへよながらへば又もとの古里、かくの如くに、又住みかへ〳〵せずしては、人並にもなるまじく候。我がたけ少し上り候時ならでは、無量事は存ぜぬものなりと。
書き下し
人のたけは、九分十分(くぶじゅうぶ)と申し候えども、何段(なんだん)ほどこれあるものに候や、無量(むりょう)のものなり。これ迄(まで)と思い一つ所に滞(とどこお)り自慢などする事、なかなか卑(いや)しき位(くらい)なり。歌に、いずくにも心とまらば住みかえよ ながらえば又もとの古里(ふるさと)、かくの如くに、又住みかえ住みかえせずしては、人並にもなるまじく候。我がたけ少し上り候時ならでは、無量事(むりょうごと)は存ぜぬものなりと。
現代語訳
人の成長の丈(たけ)は、九分・十分でもう限界だなどと言うけれども、実際にはどれほどの段階があるものか、際限がないものだ。「もうこれまで」と思って一つの所に留まり、自慢などするのは、なかなか卑しい低い境地である。歌に「どこであれ心が留まったなら、住み替えよ。生き長らえれば、また元の古里へ戻ることもあろう」とあるように、こうして次々に住み替えて(境地を移して)いかなければ、人並みにさえなれない。自分の丈が少し上がったときでなければ、その先に際限のない世界があることは分からないものだ、と。
解説
人間の成長には限界がなく、「もうこれで十分」と一つの境地に安住した瞬間に成長は止まる、と説く一条です。九分十分でおしまいに見えても、実際には数えきれないほど上の段階がある。だから今の到達点で自慢し留まるのは卑しいことだ、と戒めます。引かれる歌は、心が一つの場所に留まりそうになったら住み替えよ、と促すもので、絶えず境地を移し、更新し続けよという教えです。面白いのは、「自分の丈が少し上がって初めて、その先の広大な世界が見える」という指摘です。上に登らなければ、上にまだ世界があることすら分からない。現状に満足せず学び続ける人だけが、次の景色を知ることができるという、成長の本質を突いた普遍的な言葉です。
この章句が説くこと
葉隠成長向上心無量慢心自己更新
関連する章句
-
論語・為政篇子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)い、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。
-
葉隠・聞書第二少し眼(め)見え候者は、我が長(た)けを知り、非を知りたりと思ふゆゑ、尚々(なおなお)自慢になるものなり。実(じつ)に我が長け、我が非を知る事成り難(がた)きものの由。海音和尚(かいおんおしょう)御話(おはなし)なり。
-
論語・述而篇子曰わく、我は生まれて之を知る者に非ず。古を好みて敏にして之を求むる者なり。
-
伝習録・薛侃録先生の門に論ずるに因り、某人は涵養の上に功を用い、某人は識見の上に功を用うと。先生曰く、「専ら涵養する者は、日に其の足らざるを見る。専ら識見なる者は、日に其の余り有るを見る。日に足らざる者は、日に余り有り。日に余り有る者は、日に足らず」と。
-
徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
-
尚書・西伯戡黎我が生、命は天に在るに非ずや。