葉隠 / 聞書第一
古川六郎左衛門申し候は、「主人として用に立つ者をほしがらぬ主人はこれなく、我がほしきと兼々存ずるものを人が呆れ、然る處に、何卒御用に立ち度しと思ふことは、御用に立つものなり。此のあたりを諸人氣が附き申さず、一生をむだに暮すこと、老後に漸く存じ附き候。若き衆、油斷あるまじ。」と申され候。耳に留めて覺え居り候。何角の分別を止めて、唯御用に立ち度しと思ふ迄の事なり。此くの如く思ふまじき事にてはなけれども、色々阻てものが有りて、打破らぬ故、あたら一生をむだに暮すは、返すゞ殘念の事なり。我等式は何として御用に立つべきと、卑下の心にて暮らすもあり。御用に立ち度き眞實さへ強ければ、不調法者程かよきなり。小身にして田舍などに居る者は、家老年寄などと云ふは、神變不思議にてもある樣に、思ひのぼせて寄りも附き得ず、親しくなりて心安話などして見るに、不斷御用の事を忘れず、歎かるゝより外に替りたること少しもなし。御用の筋に、左程奇妙の智慧は入らぬものなり。何卒、殿の御爲、御家中、民百姓迄の爲になる事をと思ふことは、愚鈍の我々式にても濟むものなり。されども、御用に立ち度しと思ふことが、いから成りにくきものなり。
新字:古川六郎左衛門申し候は、「主人として用に立つ者をほしがらぬ主人はこれなく、我がほしきと兼々存ずるものを人が呆れ、然る処に、何卒御用に立ち度しと思ふことは、御用に立つものなり。此のあたりを諸人気が附き申さず、一生をむだに暮すこと、老後に漸く存じ附き候。若き衆、油断あるまじ。」と申され候。耳に留めて覺え居り候。何角の分別を止めて、唯御用に立ち度しと思ふ迄の事なり。此くの如く思ふまじき事にてはなけれども、色々阻てものが有りて、打破らぬ故、あたら一生をむだに暮すは、返すゞ残念の事なり。我等式は何として御用に立つべきと、卑下の心にて暮らすもあり。御用に立ち度き真実さへ強ければ、不調法者程かよきなり。小身にして田舎などに居る者は、家老年寄などと云ふは、神変不思議にてもある様に、思ひのぼせて寄りも附き得ず、親しくなりて心安話などして見るに、不断御用の事を忘れず、歎かるゝより外に替りたること少しもなし。御用の筋に、左程奇妙の智慧は入らぬものなり。何卒、殿の御為、御家中、民百姓迄の為になる事をと思ふことは、愚鈍の我々式にても済むものなり。されども、御用に立ち度しと思ふことが、いから成りにくきものなり。
書き下し
古川六郎左衛門申し候は、「主人として用に立つ者をほしがらぬ主人はこれなく、我がほしきと兼々(かねがね)存ずるものを人が呆れ、然る処に、何とぞ御用に立ち度(た)しと思ふことは、御用に立つものなり。此のあたりを諸人気が附き申さず、一生をむだに暮すこと、老後に漸(ようや)く存じ附き候。若き衆、油断あるまじ。」と申され候。耳に留めて覚え居り候。何角(なにかく)の分別を止めて、唯御用に立ち度しと思ふ迄の事なり。此くの如く思ふまじき事にてはなけれども、色々阻(へだ)てものが有りて、打ち破らぬ故、あたら一生をむだに暮すは、返す返す残念の事なり。我等式(われらしき)は何として御用に立つべきと、卑下の心にて暮らすもあり。御用に立ち度き真実さへ強ければ、不調法者程かよきなり。小身にして田舎などに居る者は、家老年寄などと云ふは、神変不思議にてもある様に、思ひのぼせて寄りも附き得ず、親しくなりて心安話(こころやすばなし)などして見るに、不断御用の事を忘れず、歎かるゝより外に替りたること少しもなし。御用の筋に、左程(さほど)奇妙の智慧は入らぬものなり。何とぞ、殿の御為、御家中、民百姓迄の為になる事をと思ふことは、愚鈍の我々式にても済むものなり。されども、御用に立ち度しと思ふことが、いから成りにくきものなり。
現代語訳
古川六郎左衛門はこう言われた。「役に立つ者を欲しがらない主人はいない。主人がかねがね欲しいと思うものを、人は呆れるほど(できぬと思い込むが)、そんな中で『なんとかお役に立ちたい』と思うことこそ、実際に役に立つのだ。人はこの点に気づかず、一生を無駄に過ごしてしまう。私も老後になってようやく気づいた。若い者よ、油断してはならない」と。この言葉を心に留めている。あれこれと分別を止めて、ただお役に立ちたいと思うまでのことだ。そう思ってはいけないわけではないのに、いろいろと隔てるものがあって、それを打ち破れないために、惜しくも一生を無駄に過ごすのは返す返す残念だ。「我々ごときが何で役に立てようか」と卑下して暮らす者もいる。お役に立ちたいという真実の思いさえ強ければ、むしろ不調法者くらいのほうがよいのだ。小身で田舎などに住む者は、家老や年寄というと神変不思議な存在のように思い上げて近寄れずにいるが、親しくなって気楽に話してみると、絶えず御用のことを忘れず案じているほかは、少しも変わったところはない。御用の筋に、それほど並外れた知恵はいらないものだ。なんとか殿のため、家中のため、民百姓のためになることをと思うことは、愚鈍な我々ごときでもできる。ただ、その「お役に立ちたい」と思うことが、いかにもなりにくいのである。