葉隠 / 聞書第十一
臨山法語。少年ヨリ一ツノ疑起リテ候ヒシ。抑〻此ノ身ヲ成敗シテ、誰ト問ハバ我ト答フル物ハ是何物ゾト、一念疑初ヨリシテ、年ノ重ナル儘ニ、疑深クナルニヨリテ、出家セント思立チ候ヒシ時、一ツノ大願力起リテ候ヒシ。迚モ出家スルトナラバ、獨一身ノ爲ニ道ヲ求メジ、諸佛ノ大法ヲ悟リテ、一切衆生ヲ度シ盡シテ後ニ正覺ヲ成ズベシ。又若シ此ノ疑ヲ明メザラン中ニ、佛法ヲ學セジ。又僧家ノ禮ヲ學セジ、人間ニ交ラバ善智識ノ下ニ、下山トヨリ外ニ身ヲ置カジトナリ。出家ノ後殊モ深ウナルニ隨ツテ、此ノ願モ深ク起リテ候ヒシハ、前佛已ニ涅槃シ、後佛末世ニ出デ給ハザル中間ニ、佛法ノ絶エン時ニ於テ、無法世界ノ衆生ヲ度センニ、障ナキ程ノ大道心ヲ起サバヤ。縱令此ノ愛ニ於テ、無間地獄ニ墜ツルトモ、衆生ノ苦ニ一ツニ代リ得バ、少シモ退屈スル事ナクシテ、生々世々未來際ヲ盡スマデ、此ノ願ヲ失ハジ。又修行ニ於テ、生死相見ニ滯ラジ。又自ラ其ノ力到ラザランニ、人ノ利益シテ人ノ眼ヲ潰サジト、此ノ願心ノ僻トナリテ、工夫ノ障ト成リ候ヒシカドモ、已ム事ヲ得ズシテ、諸佛ニ對シテモ、常々此ノ願ヲ達シテ候ヒシホドニ、一切ノ善惡ノ緣ニ對スル時モ、唯此ノ願ヲ行ジ、諸天ノ眼ヲ友トシテ、今ニ至リ申シ候ナリ。奉公人の大願も斯くの如くなるべし。
新字:臨山法語。少年ヨリ一ツノ疑起リテ候ヒシ。抑〻此ノ身ヲ成敗シテ、誰ト問ハバ我ト答フル物ハ是何物ゾト、一念疑初ヨリシテ、年ノ重ナル儘ニ、疑深クナルニヨリテ、出家セント思立チ候ヒシ時、一ツノ大願力起リテ候ヒシ。迚モ出家スルトナラバ、独一身ノ為ニ道ヲ求メジ、諸仏ノ大法ヲ悟リテ、一切衆生ヲ度シ尽シテ後ニ正覚ヲ成ズベシ。又若シ此ノ疑ヲ明メザラン中ニ、仏法ヲ学セジ。又僧家ノ礼ヲ学セジ、人間ニ交ラバ善智識ノ下ニ、下山トヨリ外ニ身ヲ置カジトナリ。出家ノ後殊モ深ウナルニ随ツテ、此ノ願モ深ク起リテ候ヒシハ、前仏已ニ涅槃シ、後仏末世ニ出デ給ハザル中間ニ、仏法ノ絶エン時ニ於テ、無法世界ノ衆生ヲ度センニ、障ナキ程ノ大道心ヲ起サバヤ。縦令此ノ愛ニ於テ、無間地獄ニ墜ツルトモ、衆生ノ苦ニ一ツニ代リ得バ、少シモ退屈スル事ナクシテ、生々世々未来際ヲ尽スマデ、此ノ願ヲ失ハジ。又修行ニ於テ、生死相見ニ滞ラジ。又自ラ其ノ力到ラザランニ、人ノ利益シテ人ノ眼ヲ潰サジト、此ノ願心ノ僻トナリテ、工夫ノ障ト成リ候ヒシカドモ、已ム事ヲ得ズシテ、諸仏ニ対シテモ、常々此ノ願ヲ達シテ候ヒシホドニ、一切ノ善悪ノ縁ニ対スル時モ、唯此ノ願ヲ行ジ、諸天ノ眼ヲ友トシテ、今ニ至リ申シ候ナリ。奉公人の大願も斯くの如くなるべし。
書き下し
臨山法語(りんざんほうご)。少年より一つの疑(うたがい)起りて候ひし。抑〻(そもそも)此の身を成敗して、誰と問はば我と答ふる物は是(これ)何物ぞと、一念疑ひ初(はじめ)よりして、年の重なる儘(まま)に、疑深くなるによりて、出家せんと思立ち候ひし時、一つの大願力(だいがんりき)起りて候ひし。迚(とて)も出家するとならば、獨(ひと)り一身の爲に道を求めじ、諸佛の大法を悟りて、一切衆生を度(ど)し盡くして後に正覺(しょうがく)を成ずべし。又若し此の疑を明(あき)めざらん中に、佛法を學せじ。又僧家の禮を學せじ、人間に交らば善智識(ぜんちしき)の下に、下山とより外に身を置かじとなり。出家の後殊も深うなるに隨(したが)ひて、此の願も深く起りて候ひしは、前佛已(すで)に涅槃し、後佛末世に出で給はざる中間(ちゅうげん)に、佛法の絶えん時に於て、無法世界の衆生を度せんに、障(さわり)なき程の大道心を起さばや。縱令(たとい)此の愛に於て、無間(むけん)地獄に墜つるとも、衆生の苦に一つに代り得ば、少しも退屈する事なくして、生々世々(しょうじょうせせ)未來際(みらいざい)を盡くすまで、此の願を失はじ。又修行に於て、生死相見(しょうじそうけん)に滯(とどこお)らじ。又自ら其の力到らざらんに、人の利益(りやく)して人の眼を潰さじと、此の願心の僻(ひがみ)となりて、工夫の障と成り候ひしかども、已(や)む事を得ずして、諸佛に對しても、常々此の願を達して候ひしほどに、一切の善惡の緣に對する時も、唯此の願を行じ、諸天の眼を友として、今に至り申し候なり。奉公人の大願も斯(か)くの如くなるべし。
現代語訳
臨山和尚の法語である。少年のころから一つの疑問が起こっていた。そもそもこの身を滅ぼして、「誰か」と問われれば「我」と答えるこの主体は、いったい何者なのか。その一念の疑いを初めとして、年を重ねるにつれ疑いが深まり、出家しようと思い立ったとき、一つの大きな願いが起こった。どうせ出家するのなら、自分一人のために道を求めまい。諸仏の大いなる教えを悟り、すべての衆生を救い尽くしてから、最後に自らの悟りを成就しよう。またこの疑いを明らめぬうちは、仏法を学ぶまい、僧としての礼法も学ぶまい、世間に交わっても善き師のもとに身を置くほかはすまい、と。出家の後、修行が深まるにつれこの願いもいっそう強くなった。過去の仏はすでに涅槃に入り、未来の仏はまだ末世に現れぬその間、仏法が絶える時にあって、法なき世の衆生を救うのに障りのないほどの大いなる道心を起こしたい。たとえこの思いゆえに無間地獄に堕ちようとも、衆生の苦しみに代わることができるなら、少しもひるむことなく、幾度生まれ変わろうとも未来の果てまで、この願いを失うまい、と。また修行において生死のとらわれに滞るまい。自分の力が及ばぬのに人を救おうとして、かえって人の目を潰すようなことはすまい、と。この願いの心がときに偏りとなり、工夫の妨げにもなったが、やむを得ず、諸仏に対しても常にこの願いを立て続けてきたので、あらゆる善悪の縁に向き合うときも、ただこの願いを行じ、諸天の眼を友として今に至っているのである。奉公人の大願も、これと同じであるべきだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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荀子・大略篇公行子之(こうこうしし)、燕(えん)に之(ゆ)き、曾元(そうげん)に塗(みち)に遇(あ)ひて曰く、「燕君(えんくん)は何如(いかん)」と。曾元曰く、「志(こころざし)卑(ひく)し。志卑き者は物を軽んじ、物を軽んずる者は助けを求めず。苟(いやしく)も助けを求めずんば、何ぞ能(よ)く挙(あ)がらん。氐羌(ていきょう)の虜(とりこ)たるや、其の係累(けいるい)せらるるを憂へずして、其の焚(や)かれざるを憂ふ。夫(か)の秋毫(しゅうごう)を利として、国家を害(そこな)ひ靡(ほろぼ)す、然も且(か)つ之を為す、幾(あ)に知計(ちけい)を為すと為さんや」と。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「名を好むの人は、能く千乘の國を讓る。苟くも其の人に非ざれば、簞食豆羹も色に見わる。」
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論語・里仁篇子曰わく、いやしくも仁に志せば、悪しきこと無し。
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史記 伯夷列伝子曰く、「道同じからざれば相ひ為に謀らず」と。亦た各々其の志に従ふなり。故に曰く、「富貴もし求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従はん」と。「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知る」。世を挙げて混濁して、清士乃ち見はる。豈に其の重んずること彼の若く、其の軽んずること此くの若くなるを以てせんや。
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孟子・盡心章句上公孫丑曰く、「伊尹曰く、『予、不順に狎れしめず。』太甲を桐に放ち、民大いに悅ぶ。太甲賢となる。又之を反し、民大いに悅ぶ。賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」孟子曰く、「伊尹の志有れば、則ち可なり。伊尹の志無ければ、則ち篡うなり。」
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葉隠・聞書第一一度打向へば、最早(もはや)其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後(のち)に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして学に志すとは、即ち聖人なり。初発心時(しょほっしんじ)辨成正覚(べんじょうしょうがく)ともこれあるなり。