葉隠 / 聞書第十一
中野神右衛門申し候は、「兵法など習ふ事無益なり。目を塞ぎ、一足なりとも踏込みて討たねば役に立たぬものなり。」と。彌永左助も同然に申し候。
新字:中野神右衛門申し候は、「兵法など習ふ事無益なり。目を塞ぎ、一足なりとも踏込みて討たねば役に立たぬものなり。」と。弥永左助も同然に申し候。
書き下し
中野神右衛門申し候は、「兵法など習ふ事無益なり。目を塞ぎ、一足なりとも踏込みて討たねば役に立たぬものなり。」と。彌永左助(やながさすけ)も同然に申し候。
現代語訳
兵法など無益であり、目を閉じてでも一歩踏み込んで討たなければ役に立たない、という話である。中野神右衛門が言うには、「兵法など習うことは無益だ。目を閉じてでも、一歩なりとも踏み込んで討たなければ、何の役にも立たないものだ」と。弥永左助も同じように言っていた。
解説
技巧としての兵法を学ぶより、いざというときに目を閉じてでも一歩踏み込む思い切りこそが肝要だ、と説く一条です。理屈や型を身につけても、肝心の場面で踏み込めなければ意味がない、という『葉隠』らしい行動第一の思想が表れています。分別より決行を重んじる姿勢は、殺伐とした武の文脈から出た言葉で、暴力を是とする点は現代の価値観とは相容れません。ただ、知識を集めるだけで肝心の一歩を踏み出せない、という戒めは今も通じます。学びを行動に転じる勇気、その一点に価値を置いた武士の実践哲学として読めます。
この章句が説くこと
葉隠中野神右衛門行動第一踏み込む勇気決行兵法批判
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