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葉隠 / 聞書第二

愚見集に書附け候如く、奉公人の至極は家老の座に直り、御意見申上ぐる事に候。此の眼さへ着け候へば、餘の事捨てものなどはゆるし申し候。斯様の事に眼の着きたる者一人もなし。たま〜私慾の立身を好みて、追從仕廻る者はあれども、これは小慾にて終には家老には望みかけ得ず、少し魂の入りたる者は、利慾を離る〜と思ひて踏込みて奉公せず、徒然草、撰集抄などを樂しみ候。兼好西行など、家極老の衆は學びても然るべく候。武士業がならぬ故、抜け風をこしらへたるものなり。今にも出は、腰拔すくれたる者なり。侍たる者は名利の眞中、地獄の眞中に駈入りても、主君の御用に立つべきとなり。

新字:愚見集に書附け候如く、奉公人の至極は家老の座に直り、御意見申上ぐる事に候。此の眼さへ着け候へば、余の事捨てものなどはゆるし申し候。斯様の事に眼の着きたる者一人もなし。たま〜私慾の立身を好みて、追従仕廻る者はあれども、これは小慾にて終には家老には望みかけ得ず、少し魂の入りたる者は、利慾を離る〜と思ひて踏込みて奉公せず、徒然草、撰集抄などを楽しみ候。兼好西行など、家極老の衆は學びても然るべく候。武士業がならぬ故、抜け風をこしらへたるものなり。今にも出は、腰抜すくれたる者なり。侍たる者は名利の真中、地獄の真中に駈入りても、主君の御用に立つべきとなり。

書き下し

名利(みょうり)の真中(まんなか)、地獄の真中に駈入(かけい)りても主君の御用に立て。愚見集(ぐけんしゅう)に書附(かきつ)け候如く、奉公人の至極(しごく)は家老の座に直り、御意見申上ぐる事に候。此(こ)の眼さえ着け候えば、余の事捨てものなどはゆるし申し候。斯様(かよう)の事に眼の着きたる者一人もなし。たまたま私慾(しよく)の立身を好みて、追従(ついしょう)仕廻(しま)る者はあれども、これは小慾(しょうよく)にて終(つい)には家老には望みかけ得ず、少し魂の入りたる者は、利慾を離るると思いて踏込みて奉公せず、徒然草(つれづれぐさ)、撰集抄(せんじゅうしょう)などを楽しみ候。兼好(けんこう)西行(さいぎょう)など、家極老(かきわめろう)の衆は学びても然(しか)るべく候。武士業(ぶしわざ)がならぬ故(ゆえ)、抜け風(ぬけかぜ)をこしらえたるものなり。今にも出(いで)は、腰抜(こしぬ)けすくれたる者なり。侍たる者は名利の真中、地獄の真中に駈入りても、主君の御用に立つべきとなり。

現代語訳

愚見集に書きつけたとおり、奉公人の究極は家老の座に就き、主君にご意見を申し上げることである。この一点さえ見据えていれば、他のことは多少おろそかでも許される。だがこの点に目をつけている者は一人もいない。たまたま私欲から出世を好んでへつらう者はいるが、これは小さな欲で、結局は家老を望むには至らない。少し気骨のある者は、利欲を離れたいと思って奉公に深く踏み込まず、徒然草や撰集抄などを楽しんでいる。兼好や西行などは、老いを極めた隠居の衆が学ぶならよいが、武士の務めが果たせないから隠遁を口実にこしらえているのだ。今の世に出てくれば、腰抜けのしなびた者である。侍たる者は、名誉と利欲のただ中、地獄のただ中に駈け入ってでも、主君の御用に立つべきである、というのだ。

解説

奉公人の究極の目標は家老にまで昇り、主君に諫言できる立場に立つことだ、と説く一条です。私欲でへつらう者は小物で大成せず、逆に気骨はあっても利欲を嫌って奉公を避け、隠遁趣味に逃げる者もいる。しかし常朝はこれを「武士の務めができない言い訳」と斬り捨てます。西行や兼好の隠遁は老後に学ぶならよいが、現役が真似れば腰抜けだ、と厳しい。名誉欲も利欲も渦巻く「地獄のただ中」に、あえて飛び込んででも務めを全うせよ、というのが結論です。俗世を避けて清く生きるより、汚れた現実に踏みとどまって責任を果たす方が価値がある、という現実肯定の思想です。現代でも、面倒を避けて評論家的に距離を置くより、当事者として泥をかぶる覚悟を促す言葉として読めます。

この章句が説くこと

葉隠奉公家老諫言隠遁現実肯定

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