葉隠 / 聞書第二
前數馬申し候は、「茶の湯の本意は、六根を淸くする爲なり。眼に掛物、生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聽き、口に茶を味はひ、手足格を正し、五根淸淨なる時、意自ら淸淨なり。畢竟意を淸くする所なり。我は二六時中茶の湯の心離れず、全く慰み事にあらず。又道具は、たけく相應にするものなり。梅一字の詩に、前村深雪裏昨夜數枝開との數枝富貴なりとて、一枝と直されたりとなり。一枝の所がわび好きなり。」と申され候由。
新字:前数馬申し候は、「茶の湯の本意は、六根を清くする為なり。眼に掛物、生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味はひ、手足格を正し、五根清浄なる時、意自ら清浄なり。畢竟意を清くする所なり。我は二六時中茶の湯の心離れず、全く慰み事にあらず。又道具は、たけく相応にするものなり。梅一字の詩に、前村深雪裏昨夜数枝開との数枝富貴なりとて、一枝と直されたりとなり。一枝の所がわび好きなり。」と申され候由。
書き下し
前(さき)の数馬(かずま)申し候は、「茶の湯の本意は、六根を清くする為なり。眼に掛物、生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味わい、手足格(かく)を正し、五根清浄なる時、意(い)自ら清浄なり。畢竟(ひっきょう)意を清くする所なり。我は二六時中(にろくじちゅう)茶の湯の心離れず、全く慰み事にあらず。又道具は、たけく相応にするものなり。梅一字の詩に、前村深雪裏、昨夜数枝開との、数枝は富貴なりとて、一枝と直されたりとなり。一枝の所がわび好きなり。」と申され候由。
現代語訳
茶の湯の本意は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清めるためであって、けっして単なる慰み事ではない。前の数馬はこう言われた。「茶の湯の本意は、六根を清めることにある。眼に掛物や生花を見、鼻に香を嗅ぎ、耳に湯の煮える音を聴き、口に茶を味わい、手足の作法を正しくして、五根が清浄になるとき、心もおのずから清浄になる。つまるところ心を清めるところにあるのだ。私は一日中、茶の湯の心を離れることがない。まったく慰み事ではないのだ。また茶道具は、身分に応じてふさわしいものを用いるべきものだ。梅を詠んだ詩に『前村深雪の裏、昨夜数枝開く』とあるのを、『数枝』では華美すぎるとして『一枝』と直された。この『一枝』のところが、わびの心にかなっている」と言われたという。
解説
この章句が説くこと
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葉隠・聞書第二数馬(かずま)申し候は、茶の湯に古き道具を用うる事を、むさき事、新しき器綺麗(きれい)にて然(しか)るべしと申す衆あり。また古き道具はしおらしき故(ゆえ)用うるなどと思う人もあり。皆相違なり。古き道具は下賤(げせん)の者も取り扱いたる物なれども、よくよくその徳ある故に、大人(たいじん)の手にも触れらるるものなり。徳を貴みてなり。奉公人も同然なり。下賤より高位になりたる人は、その徳ある故なり。然るを、氏(うじ)もなき者と同役はなるまじ、昨今(さっこん)まで足軽にてありし者を頭人(とうにん)には罷成(まかりな)らず、と思うは以ての外(もってのほか)取違(とりちが)いなり。もとより、その位に備わりたる人よりは、下より登りたるは、徳を貴みて一入(ひとしお)崇敬する筈なり。
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『武士道』第六章 禮儀・茶の湯は正念正覚の第一要件然りと雖、人或は云はん、区々たる礼儀の、いかでか能く高遠なる精神的造詣の道たるを得べきやと。されど知らずや、西諺にも『路皆、羅馬に通ず』と云へるを。最も簡易の事物と雖、亦た之を以て技芸となし、且つ精神修養の道となすを得べし。即ち例せば、茶の湯の如き是なり。或は茶を啜るも亦た美術の一端なるかと嗤ふものあらん。されど児童の砂上に画き、蛮人の岩石に刻むは、即ちラファエロを出し、ミケランジェロを生むの約束なりき。然るを況んや、印度の隠者が脱世間の冥想より生ぜる喫茶の、進みて宗教及び道徳の侍女たる能はざるの理あらんや。心情の恬淡、挙止の平静なるは、茶の湯の第一義にして、又た正念正覚の第一要件なり。飽くまで清らかなる小室は、浮世の騒がしきを許さず、既に思を塵外に誘ふに足るものあり。
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