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葉隠 / 聞書第二

山崎藏人の金言「見え過ぐる奉公人はわろし」——道樂は禁物 山崎藏人申され候は、「見え過ぐる奉公人はわろし」と、これ金言にて候。或は理非の穿鑿強く、又は無常を觀じ、隱者を好み、風雅を好む世の中、事繁き都などと見なし、佛道修行にて生死を離れ、詩歌の翫び、風雅を好む、これは、我が一身を安樂にして心を淨く持つばかりなり。奉公人には第一の禁物。斯くの如き者は皆腰拔なり。世間に無學文盲にして奉公一偏に精を入れ、又は妻子以下の育てに心掛くる者は、一生見事に暮すなり。奉公人にてはありながら、坐禪を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に、興を促する人は、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家、隱者にもあらず、見苦しき有樣なり。しからずと申す事あり。これは障りまでにはなるまじく候。さりながら、家職一偏に心掛け候へば、隙て少しの隙もなきものなり。隙のあるは未だ打ちはまらざる故なり。老功の士の一言は厚きことなり。藏人年寄役の時分、俳諧はやり、殿中にても俳諧する人多く候へども、藏人一人終に仕習ひ申されず、「御用濟み候へば、各々は俳諧なされ候へ。」と申し候て、歸り申され候。隱居以後、連歌三昧にて日を暮し申され候由。

新字:山崎蔵人の金言「見え過ぐる奉公人はわろし」——道楽は禁物 山崎蔵人申され候は、「見え過ぐる奉公人はわろし」と、これ金言にて候。或は理非の穿鑿強く、又は無常を観じ、隠者を好み、風雅を好む世の中、事繁き都などと見なし、仏道修行にて生死を離れ、詩歌の翫び、風雅を好む、これは、我が一身を安楽にして心を浄く持つばかりなり。奉公人には第一の禁物。斯くの如き者は皆腰抜なり。世間に無學文盲にして奉公一偏に精を入れ、又は妻子以下の育てに心掛くる者は、一生見事に暮すなり。奉公人にてはありながら、坐禅を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に、興を促する人は、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家、隠者にもあらず、見苦しき有様なり。しからずと申す事あり。これは障りまでにはなるまじく候。さりながら、家職一偏に心掛け候へば、隙て少しの隙もなきものなり。隙のあるは未だ打ちはまらざる故なり。老功の士の一言は厚きことなり。蔵人年寄役の時分、俳諧はやり、殿中にても俳諧する人多く候へども、蔵人一人終に仕習ひ申されず、「御用済み候へば、各々は俳諧なされ候へ。」と申し候て、歸り申され候。隠居以後、連歌三昧にて日を暮し申され候由。

書き下し

山崎蔵人(くらんど)の金言「見え過ぐる奉公人はわろし」——道楽は禁物。山崎蔵人申され候は、「見え過ぐる奉公人はわろし」と、これ金言にて候。或は理非の穿鑿(せんさく)強く、又は無常を観じ、隠者を好み、風雅を好む、世の中、事繁き都などと見なし、仏道修行にて生死を離れ、詩歌の翫(もてあそ)び、風雅を好む、これは、我が一身を安楽にして心を浄く持つばかりなり。奉公人には第一の禁物。斯くの如き者は皆腰抜けなり。世間に無学文盲にして奉公一偏に精を入れ、又は妻子以下の育てに心掛くる者は、一生見事に暮すなり。奉公人にてはありながら、坐禅を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に、興を促する人は、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家、隠者にもあらず、見苦しき有様なり。しからずと申す事あり。これは障りまでにはなるまじく候。さりながら、家職一偏に心掛け候えば、隙(ひま)とて少しの隙もなきものなり。隙のあるは未だ打ちはまらざる故なり。老功の士の一言は厚きことなり。蔵人年寄役の時分、俳諧はやり、殿中にても俳諧する人多く候えども、蔵人一人終に仕習い申されず、「御用済み候えば、各々は俳諧なされ候え。」と申し候て、帰り申され候。隠居以後、連歌三昧にて日を暮し申され候由。

現代語訳

山崎蔵人はこう言われた。「利口ぶって見えすぎる奉公人はよくない」。これは金言である。あるいは物事の理非をやたらと詮索し、あるいは世の無常を悟った気になって隠者を気取り、風雅を好み、世の中を煩わしい都と見なして、仏道修行で生死を超越しようとし、詩歌をもてあそび風雅を好む。こうしたことは、しょせん自分一身を安楽にし、心を清く保つだけのことにすぎない。奉公人には第一の禁物である。このような者は皆、腰抜けだ。世間で無学で読み書きもできぬまま、奉公一筋に精を出し、あるいは妻子の養育に心を用いる者は、一生を見事に生き抜く。奉公人でありながら、坐禅を組み、詩歌に心を寄せ、境地を風雅にして興を催す人は、いざというとき力なく責められ、俗人でも僧でもなく、公家でも隠者でもない、見苦しい有様となる。そうではないという意見もある。趣味くらいは差し支えにはなるまい、と。しかし、家職ひとすじに心がければ、暇などまったくないものだ。暇があるのは、まだ本気で務めに没入していないからだ。功を積んだ老士の一言は重い。蔵人が年寄役の頃、俳諧が流行し、殿中でも俳諧をする人が多かったが、蔵人一人はついに手を染めず、「御用が済んだら、皆さんは俳諧をなさるがよい」と言って帰られた。隠居後は連歌三昧で日を送られたという。

解説

「利口ぶって見えすぎる奉公人はよくない」という山崎蔵人の言葉を軸に、務めの本分を説く条です。理屈っぽさや、無常を悟ったふりの風流趣味は、結局は自分の心を安楽にするだけで、いざというときに役立たない、と手厳しく批判します。むしろ無学でも奉公一筋に励む者の方が立派に生きる、というのです。核心は「本気で務めに打ち込めば暇などない」という一点。趣味自体を全否定するのではなく、務めが第一で余技はその後だと戒めます。現代でも、仕事から逃げる口実として教養や趣味を持ち出すのと、本業を全うした上で楽しむのとは意味が違う。優先順位を見失うなという、集中と専心の教えとして読めます。

この章句が説くこと

葉隠専心本分山崎蔵人見え過ぐる務め第一

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