葉隠 / 聞書第二
邪智深き佞人は我が立身の才覺のみ、それを見拔く事は難い談議、說法、教訓なども、言ひ過ぎせば、害になり候となり。邪智深き者ある時は、主人をだまし込み、我が立身の才覺のみいたし候。主の氣に入る筋を考へ覺えたる者は、少々にて邪の所見えぬものなり。よくよく見にくき物なれ共、權現樣を彌四郎はだましぬき申し候。斯樣の者は、多分新參成上りにあるものなり。
新字:邪智深き佞人は我が立身の才覺のみ、それを見抜く事は難い談議、説法、教訓なども、言ひ過ぎせば、害になり候となり。邪智深き者ある時は、主人をだまし込み、我が立身の才覺のみいたし候。主の気に入る筋を考へ覺えたる者は、少々にて邪の所見えぬものなり。よくよく見にくき物なれ共、権現様を弥四郎はだましぬき申し候。斯様の者は、多分新参成上りにあるものなり。
書き下し
邪智(じゃち)深き佞人(ねいじん)は我が立身の才覚のみ、それを見抜く事は難い。談議、説法、教訓なども、言い過ぎせば、害になり候となり。邪智深き者ある時は、主人をだまし込み、我が立身の才覚のみいたし候。主の気に入る筋を考え覚えたる者は、少々にて邪(じゃ)の所見えぬものなり。よくよく見にくき物なれ共、権現様(ごんげんさま)を弥四郎(やしろう)はだましぬき申し候。斯様(かよう)の者は、多分新参成上(しんざんなりあが)りにあるものなり。
現代語訳
悪知恵の深い佞人は、ただ自分の出世の工夫ばかりを企てるもので、それを見抜くのは難しい。談義や説法、教訓なども、言い過ぎると害になるという。悪知恵の深い者がいると、主人をだまし込んで、ひたすら自分の出世の策ばかりを巡らす。主人の気に入る筋道を考えて心得ている者は、少々のことでは邪心のありかが見えないものだ。よくよく見抜きにくいものだが、あの権現様(家康公)でさえ、弥四郎にはだまし抜かれた。こうした者は、たいてい新参の成り上がり者の中にいるものだ。
解説
主君に取り入り私利をはかる佞人を見抜く難しさを説いた条です。核心は「出世のために主人を巧みに操る者は、簡単には見抜けない」という点にあります。主人の好みを心得て気に入る筋道ばかりを述べる者は、邪心が表に出ないため見破りにくい。あの家康公でさえ欺かれたと例を挙げ、人を見る目の難しさを痛感させます。現代の組織にも通じます。上役に取り入るのが巧みな者ほど、その真意は見えにくいものです。耳あたりのよい言葉や、迎合する態度の裏にある動機を見極める眼力が、人を用いる立場には求められる。人物眼の難しさと重要さを説いた、実践的な教えです。
この章句が説くこと
葉隠人物眼佞人見抜く難しさ出世欲迎合