葉隠 / 聞書第二
御留守居二度の口達。主人にも何氣もなく思はれては、大事の奉公はされぬものなり。此のあたり一心の覺悟にて顯るゝなり。御叱りの時は、御惡口のみ仰出でられ候へども、終に御惡口に逢ひ申さず候。若殿様は主人を見限りさうなる者と度々御意なされ、本望と存居り候。光茂公御卒去の時分などは、我等申上げ候事は少しも御疑ひとれなく候由。
新字:御留守居二度の口達。主人にも何気もなく思はれては、大事の奉公はされぬものなり。此のあたり一心の覚悟にて顕るゝなり。御叱りの時は、御悪口のみ仰出でられ候へども、終に御悪口に逢ひ申さず候。若殿様は主人を見限りさうなる者と度々御意なされ、本望と存居り候。光茂公御卒去の時分などは、我等申上げ候事は少しも御疑ひとれなく候由。
書き下し
御留守居(おるすい)二度の口達(くたつ)。主人にも何気(なにげ)もなく思はれては、大事の奉公はされぬものなり。此のあたり一心(いっしん)の覚悟にて顕(あらわ)るるなり。御叱(おしか)りの時は、御悪口(ごあっこう)のみ仰出(おおせい)でられ候へども、終(つい)に御悪口に逢ひ申さず候。若殿様(わかとのさま)は「主人を見限りさうなる者」と度々(たびたび)御意(ぎょい)なされ、本望(ほんもう)と存じ居り候。光茂公(みつしげこう)御卒去(ごそっきょ)の時分などは、我等(われら)申し上げ候事は少しも御疑(おうたが)ひとれなく候由。
現代語訳
御留守居役として二度にわたって申し渡されたこと。主君からなおざりに軽く思われているようでは、大事な奉公はできないものだ。この違いは、ひとえに一心の覚悟によって表れてくる。お叱りのときには悪しざまに言われることもあったが、結局のところ本気の悪口を浴びせられたことはなかった。若殿様はしばしば「あの者は主君を見限りかねぬ者だ」と仰せになったが、私はそれをむしろ本望と思っている。光茂公がお亡くなりになる頃などは、私が申し上げることには少しの疑いもお持ちにならなかったという。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』離婁下 第四章十一月十一日。去徙は皆其の国を去りて他国に徙るを云ふ。是れ游仕の人に就いて云ふ。世禄の士、国と休戚を同じうする者の如きは、豈に禍を免れて自ら其の智に誇ることを得んや。人臣たる者、時の不淑に遇ひて諫諍死を致す、固より正義なり、何ぞ遽かに去徙することを得んや。然れども諫め行はれず言聴かれず、君子の道消し小人の道長じたらんには、官を辞し身を退き、一身の覚悟を全うし、緩急のみ用に立たんことを計るも、亦是れ一義にして即ち去徙の意なり。
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