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葉隠 / 聞書第二

地獄にも落ちよ神罰にも當れ、主人に志立つる外はない 歸り新參などは、さても鈍になりたると見ゆる位がよし。しつかりと落着いて動かぬ位があるなり。御譜代の忝さ、有難き御國なることは、氣の附くほど御恩が重くなるなり。斯様に行當りてよりは、浪人などは何げもなきことゝなり。この主從の契より外には、何もいらぬことゝなり。この事はまだなりとて、釋迦・孔子・天照大神の御出現にて御勸めにても、地獄にも落ちよ、神罰にもあれ、此方は主人に志立つるより外はいらぬなり。悪くすれば神道の、佛道のと云ひ、結構な打上つた道理に轉ぜらるゝものなり。佛神も、これをわるしとは、思召さるまじきなりと。

新字:地獄にも落ちよ神罰にも当れ、主人に志立つる外はない 歸り新参などは、さても鈍になりたると見ゆる位がよし。しつかりと落着いて動かぬ位があるなり。御譜代の忝さ、有難き御国なることは、気の附くほど御恩が重くなるなり。斯様に行当りてよりは、浪人などは何げもなきことゝなり。この主従の契より外には、何もいらぬことゝなり。この事はまだなりとて、釈迦・孔子・天照大神の御出現にて御勧めにても、地獄にも落ちよ、神罰にもあれ、此方は主人に志立つるより外はいらぬなり。悪くすれば神道の、仏道のと云ひ、結構な打上つた道理に転ぜらるゝものなり。仏神も、これをわるしとは、思召さるまじきなりと。

書き下し

地獄にも落ちよ神罰にも当れ、主人に志立つる外はない。帰り新参などは、さても鈍(にぶ)になりたると見ゆる位がよし。しっかりと落ち着いて動かぬ位があるなり。御譜代(ごふだい)の忝(かたじけな)さ、有難き御国なることは、気の附くほど御恩が重くなるなり。斯様(かよう)に行き当りてよりは、浪人などは何げもなきこととなり。この主従の契(ちぎり)より外には、何もいらぬこととなり。この事はまだなりとて、釈迦・孔子・天照大神の御出現にて御勧めにても、地獄にも落ちよ、神罰にもあれ、此方(こなた)は主人に志立つるより外はいらぬなり。悪くすれば神道の、仏道のと云い、結構な打ち上がった道理に転ぜらるるものなり。仏神も、これをわるしとは、思召さるまじきなりと。

現代語訳

たとえ地獄に落ちようと神罰を受けようと、主君に志を尽くすほかに道はない。一度離れて戻った新参者などは、いっそ鈍くなったと見えるくらいがよい。どっしり落ち着いて動じない構えがあるものだ。譜代のありがたさ、恵まれた御国であることは、気づけば気づくほど御恩が重く感じられる。ここまで思い至れば、浪人になることなど何ということもなくなる。この主従の契り以外には、何もいらぬのだ。それでもまだ足りぬと、釈迦・孔子・天照大神が現れて別の道を勧められても、地獄に落ちようと神罰を受けようと、こちらは主君に志を尽くすほか何もいらぬ。悪くすると、神道だ仏道だと言って、立派だが上滑りした理屈にすり替えられてしまうものだ。仏神とて、この一途さを悪いとはお思いにならぬはずだ、というのである。

解説

主君への一途な忠誠を、宗教すら超えるものとして説いた条です。核心は「地獄に落ちようと神罰を受けようと、主君に志を立てる以外はいらぬ」という徹底ぶりにあります。釈迦も孔子も天照大神も、主従の契りの前には二の次だと言い切ります。これは一種の信仰告白であり、立派な宗教論に流れて志が上滑りすることを、常朝はむしろ警戒しています。ただし現代の価値観では、特定の主君への絶対的忠誠を宗教や倫理の上に置く発想は受け入れがたく、そのまま模範とすべきものではありません。今日の視点からは、あれこれ理屈をこねず一つの対象に誠を尽くし切るという「一途さ・純粋さ」の極端な表現として読むのが適切でしょう。

この章句が説くこと

葉隠忠誠一途さ主従の契り宗教を超える純粋

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