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葉隠 / 聞書第一

今時の奉公人を見るに、いから低い眼の着け所なり。スリの目遣ひの様なり。大方、身のための欲得か、利發だてか、又は少し魂の落着きたる様なれば、身構へをするばかりなり。我が身を主君に奉り、速に死に切つて幽靈になりて、二六時中、主君の御事を歎き、事を整へて進上申し、御國家を堅むると云ふ所に眼を着けねば、奉公人とは言はれぬなり。上下の差別あるべき様なし。此のあたりに、ぎしと居すわりて、神佛の勸めにても、少しも迷はぬ様覺悟せねばならず。

新字:今時の奉公人を見るに、いから低い眼の着け所なり。スリの目遣ひの様なり。大方、身のための欲得か、利発だてか、又は少し魂の落着きたる様なれば、身構へをするばかりなり。我が身を主君に奉り、速に死に切つて幽靈になりて、二六時中、主君の御事を歎き、事を整へて進上申し、御国家を堅むると云ふ所に眼を着けねば、奉公人とは言はれぬなり。上下の差別あるべき様なし。此のあたりに、ぎしと居すわりて、神仏の勧めにても、少しも迷はぬ様覺悟せねばならず。

書き下し

今時(いまどき)の奉公人を見るに、いかにも低い眼(め)の着け所である。掏摸(スリ)の目遣(めづか)いの様である。おおかた、身のための欲得か、利発(りはつ)だてか、又は少し魂の落ち着きたる様なれば、身構えをするばかりである。我が身を主君に奉り、速(すみ)やかに死に切って幽霊になりて、二六時中(にろくじちゅう)、主君の御事(おんこと)を歎き、事を整えて進上申し、御国家を堅むると云う所に眼を着けねば、奉公人とは言われぬなり。上下(じょうげ)の差別(しゃべつ)あるべき様(よう)なし。此のあたりに、ぎしと居すわりて、神仏の勧めにても、少しも迷わぬ様(よう)覚悟せねばならず。

現代語訳

近ごろの奉公人を見ると、目のつけどころがいかにも低い。まるで掏摸(すり)の目つきのようだ。たいていは自分のための損得勘定か、利口ぶった態度か、あるいは少し肝(きも)が据わっている者でも、せいぜい身構えて自分を守るばかりである。自分の身を主君に捧げ、いっそ今すぐ死に切って幽霊にでもなったつもりで、一日じゅう主君のことを一心に思い、物事を整えて差し上げ、お家と国を堅く守る――そこに目を向けなければ、真の奉公人とは言えない。この覚悟には身分の上下の区別などない。ここに腹を据えてどっしり座り込み、たとえ神仏の誘いにあっても少しも心が動かぬよう覚悟しなければならない。

解説

奉公人はどこに目を向けるべきか、その「眼のつけどころ」を問う一条です。近ごろの者は損得勘定や利口ぶり、保身にばかり目を配り、まるで掏摸(すり)のような卑しい目つきだと常朝は嘆きます。真の奉公人は、いっそ今すぐ死に切って幽霊になったつもりで、寝ても覚めても主君と家のことだけを一心に思うべきだ、と説きます。「死に切って幽霊になる」という激しい表現は、葉隠の核心である死の覚悟と、私心を捨てた奉公一途の精神を極限まで言い表したものです。忠の絶対化は現代にそのまま移すものではありませんが、汲むべきは「眼のつけどころ」でしょう。目先の損得や保身に視線が落ちるか、果たすべき大きな務めに目を向けるか。私心を離れて志の高い一点を見据える姿勢が、人の質を分けるという教えです。

この章句が説くこと

眼のつけどころ私心を捨てる死の覚悟保身を戒める一途

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