葉隠 / 聞書第二
古來の勇士は、大かたそげものなり。そげ廻り候氣性ゆゑ、氣力強くして勇氣あり。このあたり不審に候て、尋ね候へば、「氣力強きゆゑ、平生手荒く、そげ廻り申す」と相見え候。此方は氣力弱く候ゆゑ、そげ候事は成らざるなり。氣力は劣り候、人柄は増に候。勇氣は別事なり。此方は無氣力ゆゑ、おとなしくして、死狂ひに劣るべき謂はれなし。
新字:古来の勇士は、大かたそげものなり。そげ廻り候気性ゆゑ、気力強くして勇気あり。このあたり不審に候て、尋ね候へば、「気力強きゆゑ、平生手荒く、そげ廻り申す」と相見え候。此方は気力弱く候ゆゑ、そげ候事は成らざるなり。気力は劣り候、人柄は増に候。勇気は別事なり。此方は無気力ゆゑ、おとなしくして、死狂ひに劣るべき謂はれなし。
書き下し
古来の勇士は、大かたそげものなり。そげ廻り候(そうろう)気性ゆえ、気力強くして勇気あり。このあたり不審に候て、尋ね候えば、「気力強きゆえ、平生(へいぜい)手荒く、そげ廻り申す」と相見え候。此方(このほう)は気力弱く候ゆえ、そげ候事は成らざるなり。気力は劣り候、人柄は増(まし)に候。勇気は別事なり。此方は無気力ゆえ、おとなしくして、死狂いに劣るべき謂(いわ)れなし。
現代語訳
気力の強い者は荒々しく暴れ回る。だが勇気とはそれとは別のことで、死に物狂いの覚悟に気力の強弱は関わらない。昔からの勇士はたいてい荒くれ者だった。荒れ回る気性ゆえに気力が強く、勇気があるように見える。不審に思って尋ねてみると、「気力が強いから、普段から手荒く暴れ回るのだ」とわかった。自分は気力が弱いので荒れ回ることはできない。気力は劣るが、人柄はその分ましである。勇気はまた別のことだ。自分は無気力だからこそおとなしく、それでも死に物狂いの覚悟で劣るいわれはない。
解説
常朝は、荒々しい気力の強さと、真の勇気とを切り離して考えます。世間は暴れ回る荒くれ者を勇者と見なしがちですが、それは気性の激しさにすぎない。本当の勇気、すなわち死に物狂いの覚悟には、気力の強弱は関係ないというのです。自分は気力が弱くおとなしいが、だからといって覚悟の点で劣るわけではない、という静かな自負がにじみます。現代でも、声の大きさや押しの強さを勇気と取り違えがちですが、本当の胆力は静かな人にも宿ります。ただし、死を覚悟の基準に置く価値観は現代とは隔たりがあり、ここでは「気性の激しさと本物の胆力は別」という洞察として受け取るのがよいでしょう。
この章句が説くこと
葉隠勇気気力胆力死狂い武士道
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