葉隠 / 聞書第二
「角藏流とは如何樣の心に候や。」と申し候へば、角藏流と申す者、力量の者に候故、喜雲劍術者にて取手一流仕立て、角藏流と名附け、方々指南致し、今に手形殘り居り申し候。組討やはらなどと申し、打上りたる流にてはこれなく候。我等が流儀も其の如く上びたる事は知らず、げす流にて草履取角藏が取手の樣に、端的の當用に立ち申す故、此の前から我等が角藏流と申し候。又此の前へ、寄合ひ申す衆へ話し申し候は、戀の至極は忍戀と見立て候。逢うてからは戀のたけが低し。一生忍んで思ひ死する事こそ戀の本意なれ。歌に戀死なむ後の煙にそれと知れ終ひにもらさぬ中の思ひを是こそ長高き戀なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。
新字:「角蔵流とは如何様の心に候や。」と申し候へば、角蔵流と申す者、力量の者に候故、喜雲剣術者にて取手一流仕立て、角蔵流と名附け、方々指南致し、今に手形残り居り申し候。組討やはらなどと申し、打上りたる流にてはこれなく候。我等が流儀も其の如く上びたる事は知らず、げす流にて草履取角蔵が取手の様に、端的の当用に立ち申す故、此の前から我等が角蔵流と申し候。又此の前へ、寄合ひ申す衆へ話し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢うてからは恋のたけが低し。一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に恋死なむ後の煙にそれと知れ終ひにもらさぬ中の思ひを是こそ長高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。
書き下し
角蔵流(かくぞうりゅう)とは如何様(いかよう)の心に候(そうろ)うや。」と申し候えば、角蔵流と申す者、力量の者に候ゆえ、喜雲(きうん)剣術者にて取手(とりて)一流仕立て、角蔵流と名附け、方々(ほうぼう)指南致し、今に手形残り居り申し候。組討(くみうち)やわらなどと申し、打上(うちあ)がりたる流にてはこれなく候。我等(われら)が流儀も其(そ)の如く上(じょう)びたる事は知らず、げす流にて草履取(ぞうりとり)角蔵が取手の様(よう)に、端的(たんてき)の当用(とうよう)に立ち申すゆえ、此(こ)の前から我等が角蔵流と申し候。又(また)此の前へ、寄合(よりあ)い申す衆へ話し申し候は、恋の至極(しごく)は忍恋(しのぶこい)と見立て候。逢(お)うてからは恋のたけが低し。一生忍んで思い死(じに)する事こそ恋の本意(ほい)なれ。歌に「恋死なむ後(のち)の煙にそれと知れ 終(つい)にもらさぬ中(なか)の思いを」是(これ)こそ長高(たけたか)き恋なれと申し候えば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。
現代語訳
「角蔵流とはどういう心得か」と尋ねられたので答えた。角蔵流というのは、喜雲という力量のある剣術家が組討の一流を仕立てて角蔵流と名づけ、あちこちで指南し、今もその伝書が残っている。しかしそれは組討・柔術などと称するもったいぶった流派ではない。私の流儀もそう気取ったものではなく、下賤な流で、草履取りの角蔵の取手のように、まさに実地の役に立つから、以前から自分の流を角蔵流と呼んでいるのだ。また先日、寄り合った人々に語ったのは、恋の極致は忍恋だということだ。逢ってしまえば恋の高さは低くなる。一生忍んで思い焦がれて死ぬことこそ恋の本意である。歌に「恋い死にした後の煙で、それと知ってくれ。ついに口に出さなかった、あなたへの思いを」とあるが、これこそ気高い恋だと言うと、感心した者が四、五人いて、自分たちを「煙仲間」と名乗った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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葉隠・聞書第二此の事此の中(このうち)も承り候。此の節の御話斯くの如きなり。恋の部(くだ)りの至極(しごく)は忍恋(しのぶこい)なり。「恋死(こいし)なむ後の煙のそれと知れ終(つい)にもらさぬ中の思ひ」はかくの如きなり。命の内に、それと知らするは深き恋にあらず、思死の、長(た)けの高き事に限りなし。たとえ、向(むこう)より、「斯様(かよう)にてはなきか。」と問われても、「全く思いもよらず。」と云いて、唯(ただ)思死に極むるが至極なり。廻(まわ)り遠き事にてはなく候や。此の前語り候えば、請合(うけあ)う者共ありしが、其の家中を煙仲間(けむりなかま)と申し候なり。此の事、万(よろ)ずの心得にわたるべし。主従の間など、此の心にて済むなり。又人の陰(かげ)にて嗜(たしな)むが即ち公界(くがい)なり。独り居るくらがりにて、賤(いや)しき挙動をなさず、人の目にかからぬ胸の内に、賤しき事を思わぬ様に、心がけねば公界にて綺麗には見えず、俄(にわか)に嗜みては垢(あか)が見ゆるものとなり。
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葉隠・聞書第二奉公人は、心入(こころいれ)一つにてすむことなり。分別(ふんべつ)芸能にわたれば、事むつかしく、心落着かぬものなり。又業(わざ)にて御用に立つは下段(げだん)なり。分別もなく、無芸無男(むげいぶなん)にて、何の御用にも立たず、田舎の果にて、一生朽ち果つるものか、我は殿の一人被官(ひとりひかん)なり、御懇(ごねんごろ)にあらうも、御情(おなさけ)なくあらうも、御存じなさるまいも、それには曾(かつ)て構はず、常住御恩の忝(かたじけ)なき事を骨髄に徹し、涙を流して大切に存じ奉るまでなり。これは易きことなり。これがならぬ生附(うまれつき)とてはあるまじ。又此の如く思ふまい事ではなし。長(た)け高き御被官なり。恋の心入の様なる事は稀なるものなり。情なくつらきほど、思ひを増すなり。適(たま)にも逢ふ時は、命も捨つる心になり、忍恋などとぞよき手本なれ。一生言出す事もなく、思死(おもいじに)する心入は深き事なり。又自然に偽(いつわり)に逢ひても、当座は一入(ひとしお)悦び、偽の顕るれば、尚深く思入るなり。君臣の間斯くの如くなるべし。奉公の大意、これにて瞭明(りょうめい)なり。理非の外なるものなり。
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葉隠・聞書第二今時(いまどき)の若き者、女風(おんなふう)になりたがるなり。結構者(けっこうもの)、人愛(じんあい)の有る人、物を破らぬ人柔(やわ)らかなる人と云う様なるを、よき人と取りはやす時代になりたる故(ゆえ)、矛手(ほこて)延びず、突つ切(き)れたる事成らぬなり。第一は身上(しんしょう)を抱留(かかえと)むる合黙(あいもく)が強き故、大事と計り思い、心縮(ちぢ)まると見えたり。其方(そなた)も我が知行にてなく、親の苦労して取立てられたる物を、養子に来て崩し候てはならぬことと、大事に思わるべきが、それは世上(せじょう)の風(ふう)なり。我等(われら)が所存は格別なり。奉公する時分、身上の事などは何とも思わざりしなり。素(もと)より主人のものなれば、大事がり惜しむべき様(よう)無き事なり。我等生(い)くる世の中に、奉公方(ほうこうかた)にて浪人切腹して見すれば本望至極(ほんもうしごく)なり。奉公人の打留(うちど)めは此の二箇条に極(きわ)まりたるものなり。其の中きたな崩れは無念なり。おくれ・不甲斐(ふがい)・私慾(しよく)・人の害になる事などは有るまじき事なり。其の外にては崩すを本望と思うべし。斯くの如く落着くと、其の儘矛手延びて働かれ、勢(いきおい)格別なり。
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葉隠・聞書第一…は危ふきなり。言ひ聞かする人が無きものなり。大意を申すべし。貞女両夫にまみえずと心得べし。情は一生一人のものなり。さなければ、野郎かげまに同じく、へらはり女に等し。是は武士の恥なり。「念友(ねんゆう)のなき前髪は、縁夫(えんぷ)もたぬ女に等し」と西鶴が書きしは名文なり。人がなぶりたがるものなり。浮気者は根に入らず、後は見放すものなり。互に命を捨つる後見(うしろみ)なれば、よくよく性根を見届くべきなり。くねる者あらば「障(さわ)りあり」と云うて、手強く振り切るべし。「障りは」とあらば、「それは命の内に申すべしや」と云ひ、無体(むたい)に申さば腹立て、無理ならば切り捨つべし。又男の方は、若衆の心底を見届くること前に同じ。命を抛(なげう)ちて五六年はまれば、叶はぬと云ふ事なし。尤も二道すべからず。武道を励むべし。爰(ここ)にて武士道となるなり。
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葉隠・聞書第二山崎蔵人申され候は、「見え過ぐる奉公人はわろし」と、これ金言にて候。或は理非の穿鑿(せんさく)強く、又は無常を観じ、隠者を好み、風雅を好む、世の中、事繁き都などと見なし、仏道修行にて生死を離れ、詩歌の翫(もてあそ)び、風雅を好む、これは、我が一身を安楽にして心を浄く持つばかりなり。奉公人には第一の禁物。斯くの如き者は皆腰抜けなり。世間に無学文盲にして奉公一偏に精を入れ、又は妻子以下の育てに心掛くる者は、一生見事に暮すなり。奉公人にてはありながら、坐禅を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に、興を促する人は、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家、隠者にもあらず、見苦しき有様なり。しからずと申す事あり。これは障りまでにはなるまじく候。さりながら、家職一偏に心掛け候えば、隙(ひま)とて少しの隙もなきものなり。隙のあるは未だ打ちはまらざる故なり。老功の士の一言は厚きことなり。蔵人年寄役の時分、俳諧はやり、殿中にても俳諧する人多く候えども、蔵人一人終に仕習い申されず、「御用済み候えば、各々は俳諧なされ候え。」と申し候て、帰り申され候。隠居以後、連歌三昧にて日を暮し申され候由。
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葉隠・聞書第二人間一生は、誠に纔(わずか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦を見て暮すは愚かなることなり。此の事は、わろく聞いては害になる事故(ゆえ)、若き衆などに終(つい)に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界(きょうがい)相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思うとなり。