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葉隠 / 聞書第一

一人當千となるには、善惡共に主人と一味同心し、主君の味方として、善惡共に打任せ、身を擲つて居る御家來は他事なきものなり。久しく世間を見るに、首尾よき時は、智慧・分別・藝能を以て御用に立ち、ほのめき廻る者多し。主人御隱居成され候か、御かくれ成され候時には、早後むき、出る日の方へ取入る者數多見及び、思ひ出しても、きたなきなり。大身・小身、智慧深き人、藝の有る人、我とそめきて御用に立たれども、主人の御爲に命を捨つる段になりて、へろへろとなられ候。香ばしき事少しもなし。何の御益にも立たぬ者が、件の時は一人當千と成る事は、兼てより一命を捨て、主人と一味同心して居る故なり。

新字:一人当千となるには、善悪共に主人と一味同心し、主君の味方として、善悪共に打任せ、身を擲つて居る御家来は他事なきものなり。久しく世間を見るに、首尾よき時は、智慧・分別・芸能を以て御用に立ち、ほのめき廻る者多し。主人御隠居成され候か、御かくれ成され候時には、早後むき、出る日の方へ取入る者数多見及び、思ひ出しても、きたなきなり。大身・小身、智慧深き人、芸の有る人、我とそめきて御用に立たれども、主人の御為に命を捨つる段になりて、へろへろとなられ候。香ばしき事少しもなし。何の御益にも立たぬ者が、件の時は一人当千と成る事は、兼てより一命を捨て、主人と一味同心して居る故なり。

書き下し

一人当千(いちにんとうぜん)となるには、善悪共に主人と一味同心(いちみどうしん)し、主君の味方として、善悪共に打任(うちまか)せ、身を擲(なげう)って居る御家来(ごけらい)は他事(たじ)なきものなり。久しく世間を見るに、首尾よき時は、智慧・分別・芸能を以て御用に立ち、ほのめき廻(まわ)る者多し。主人御隠居成され候か、御かくれ成され候時には、早(はや)後(あと)むき、出(い)づる日の方へ取入る者数多(あまた)見及び、思い出しても、きたなきなり。大身(たいしん)・小身(しょうしん)、智慧深き人、芸の有る人、我とそめきて御用に立たれども、主人の御為に命を捨つる段になりて、へろへろとなられ候。香(こう)ばしき事少しもなし。何の御益(おえき)にも立たぬ者が、件(くだん)の時は一人当千と成る事は、兼(かね)てより一命を捨て、主人と一味同心して居る故なり。

現代語訳

一人で千人に匹敵する家臣となるには、善きにつけ悪しきにつけ主人と心を一つにし、主君の味方として何もかも委ね、身を投げ出している――そういう家来には余計な迷いがない。長く世間を見てきたが、景気のよいときは知恵・分別・技能を発揮して役に立ち、華やかに立ち回る者は多い。ところが主人が隠居したり亡くなったりすると、たちまち背を向け、次に昇る太陽(新しい権力)へ取り入る者が数多くいて、思い出すだけでも見苦しい。身分の高い者も低い者も、知恵の深い人も芸のある人も、我こそはと騒ぎ立てて役に立っていたのに、いざ主君のために命を捨てる場面になると、へなへなと腰砕けになる。少しも見どころがない。ふだん何の役にも立たない者が、いざというとき一人当千となるのは、かねてから命を投げ出し、主人と心を一つにしているからである。

解説

平時に華々しく活躍する者ほど、いざというとき当てにならない、という人間観察の鋭い一条です。景気のよいときは知恵や芸で立ち回れても、主家が傾けば手のひらを返し、次の権力(「出づる日」)へすり寄る者が後を絶たない、と常朝は嘆きます。逆に、普段は目立たない者が土壇場で一人当千の働きを見せるのは、日ごろから主人と心を一つにし、命を投げ出す覚悟が据わっているからだ、というのです。能力より覚悟の常在を重んじる、葉隠らしい価値観がここにあります。現代でも、順境で調子よくふるまう人より、逆境でこそ真価を発揮する人がいます。その差は才能ではなく、平時からの覚悟と当事者意識にある。順境の言葉より逆境の振る舞いで人を見よ、と教える言葉です。

この章句が説くこと

一人当千覚悟の常在逆境で真価一味同心忠義順境と逆境

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