師導古典を学びたいすべての人に

葉隠 / 聞書第一

山崎藏人の、見え過ぐる奉公人はわろしと申されたるは名言なり。忠の不忠の、義の不義の、當介の不當介のと理非邪正の當りに、心の附くが嫌なり。無理無體に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて濟むことなり。これはよき御被官なり。奉公に好き過ぎたるは惡しきと申し候へども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過ぎ、過あるが本望なり。理の見ゆる人は、多分少しの所に滯り、一生をむだに暮し、殘念の事なり。誠に儚(はかな)き一生なり。只々無二無三がよきなり。二つになるが嫌なり。萬事を捨てゝ、奉公三昧に極りたり。忠の義のといふ、立上りたる理窟が返すゞ嫌なり。

新字:山崎蔵人の、見え過ぐる奉公人はわろしと申されたるは名言なり。忠の不忠の、義の不義の、当介の不当介のと理非邪正の当りに、心の附くが嫌なり。無理無体に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて済むことなり。これはよき御被官なり。奉公に好き過ぎたるは悪しきと申し候へども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過ぎ、過あるが本望なり。理の見ゆる人は、多分少しの所に滞り、一生をむだに暮し、残念の事なり。誠に儚(はかな)き一生なり。只々無二無三がよきなり。二つになるが嫌なり。万事を捨てゝ、奉公三昧に極りたり。忠の義のといふ、立上りたる理窟が返すゞ嫌なり。

書き下し

山崎蔵人(くらんど)の、見え過ぐる奉公人はわろしと申されたるは名言なり。忠の不忠の、義の不義の、当介(とうがい)の不当介のと理非邪正(りひじゃしょう)の当りに、心の附くが嫌なり。無理無体(むりむたい)に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思えば、それにて済むことなり。これはよき御被官(ごひかん)なり。奉公に好き過ぎたるは悪しきと申し候えども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過ぎ、過(とが)あるが本望なり。理の見ゆる人は、多分少しの所に滞り、一生をむだに暮し、残念の事なり。誠に儚(はかな)き一生なり。只々無二無三がよきなり。二つになるが嫌なり。万事を捨てゝ、奉公三昧に極りたり。忠の義のといふ、立ち上りたる理窟が返す返す嫌なり。

現代語訳

山崎蔵人が「利口ぶって見えすぎる奉公人はよくない」と言われたのは名言だ。忠だ不忠だ、義だ不義だ、役に立つ立たぬと、是非善悪の理屈にいちいち心が引っかかるのが嫌なのだ。理屈抜きにひたすら奉公が好きで、わき目もふらず主君を大切に思えば、それで十分である。これこそよい家来だ。奉公が好きすぎるのはよくないとも言うが、こと奉公に関しては、奉公人ならば好きすぎて度が過ぎるくらいが本望である。理屈のわかる人は、たいてい些細なところで立ち止まり、一生を無駄に過ごしてしまう。まことに儚い一生だ。ただただわき目もふらず一途なのがよい。心が二つに割れるのが嫌なのだ。すべてを捨てて奉公三昧に徹するに尽きる。忠だ義だという、頭でっかちの理屈が返す返す嫌である。

解説

「利口ぶって見えすぎる奉公人はよくない」という言葉を核に、忠だ義だと理屈をこねる姿勢を退ける一条です。是非善悪を頭で計るより、わき目もふらず主君を大切に思う一途さこそ本物だと説きます。奉公は度が過ぎるほど好きであれ、心が二つに割れるのを何より嫌う、と言い切ります。背景には、分別より一途な純一を尊ぶ葉隠の思想があります。理屈のわかる人ほど些細な損得で立ち止まり、一生を無駄にするという指摘は痛烈です。現代の仕事でも、正論や損得勘定に囚われて動けなくなるより、目の前の務めに没頭する力が結果を生む場面はあるでしょう。ただし盲従の勧めと読むと危うく、あくまで一途さの価値を語った言葉と受け取りたいところです。

この章句が説くこと

一途さ純一理屈を捨てる没頭損得勘定への戒め心を二つにしない

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる