葉隠 / 聞書第一
古老の評判に、武士の意地を立つることは、過ぐる程にするものなり。よき加減にして置きたることは後日の評判に不足出來るものなり。仕過すと思ひてしたるとき、迦れなし。斯様の儀失念すまじきことなり。と承り候。
新字:古老の評判に、武士の意地を立つることは、過ぐる程にするものなり。よき加減にして置きたることは後日の評判に不足出来るものなり。仕過すと思ひてしたるとき、迦れなし。斯様の儀失念すまじきことなり。と承り候。
書き下し
古老の評判に、武士の意地を立つることは、過ぐる程にするものなり。よき加減にして置きたることは、後日の評判に不足出来(しゅったい)るものなり。仕過すと思ひてしたるとき、迦(おく)れなし。斯様の儀、失念すまじきことなり、と承り候。
現代語訳
古老の評によれば、武士が意地を立てるときは、やり過ぎるくらいにするものだ。ほどよく加減しておいたことは、後日の評判で(かえって)物足りなさが出てくるものである。やり過ぎたと思うくらいにやったときにこそ、落度がない。こうしたことを忘れてはならない、と承った。
解説
古老の評として、武士が意地を立てるときは、やり過ぎるくらいにするものだ、と説く一条です。ほどよく加減しておいたことは、後日かえって物足りなさが評判に立つ。やり過ぎたと思うくらいにやったときにこそ、落度がない、と述べます。葉隠には、いざという場面では計算や分別を捨て、思い切って踏み切ることを尊ぶ発想が一貫しています。中途半端は後悔を残しやすい、という経験知です。現代では「やり過ぎ」がそのまま美徳とは限りませんが、ここぞという勝負どころで力を出し惜しみせず振り切ることの大切さは、今も通じます。迷って半端に終わるより、思い切って踏み込む——覚悟の作法を説いた一節です。
この章句が説くこと
意地思い切り中途半端を避ける覚悟出し惜しみしない後悔を残さない
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