葉隠 / 聞書第一
物を書くにも紙と筆と思ひ合ふ様になるが、上りたるなりと、一鼎申され候。はなればなれになりたがるなり。
書き下し
物を書くにも、紙と筆と思ひ合ふ様になるが、上(あが)りたるなりと、一鼎(いってい)申され候。はなればなれになりたがるなり。
現代語訳
物を書くときも、紙と筆とが互いに響き合うようになるのが上達というものだ、と石田一鼎は言われた。(未熟なうちは)紙と筆がとかく離れ離れになりたがるものである。
解説
物を書くときも、紙と筆とが互いに響き合うようになるのが上達というものだ、と石田一鼎が語った一条です。未熟なうちは、紙と筆がとかく離れ離れになりたがるとも述べます。道具と書き手が一体となり、意図と動きがぴたりと合う境地を、書を例にして示しています。葉隠には、芸事や仕事も「一事三昧」で心と対象が一つになることを尊ぶ発想が流れており、これもその一例です。現代の技能や表現でも、道具や相手を自分の延長のように扱えるようになったとき、初めて自在さが生まれます。ばらばらだったものが噛み合う感覚こそ、熟達の入り口だと教えてくれます。
この章句が説くこと
熟達道具と一体一事三昧書心と技響き合い
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葉隠・聞書第一手跡(しゅせき)の行儀正しく、疎略(そりゃく)なきより上はあるまじけれども、その分にては、堅(かた)くれ賤(いや)しく見ゆるなり。この上に、格(かく)を離(はな)れたる姿あるべし。諸事(しょじ)にこの理(ことわり)あるべし。
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