葉隠 / 聞書第一
武藝に貪着して、弟子など取りて武士を立つると思ふ人多し。骨を折りて、漸く藝者にならるゝは惜しき事なり。藝能は事缺かぬ分に仕習うて濟む事なり。總じて多能なる者は下劣に見え、肝要の所が大方になるものなり。
新字:武芸に貪着して、弟子など取りて武士を立つると思ふ人多し。骨を折りて、漸く芸者にならるゝは惜しき事なり。芸能は事欠かぬ分に仕習うて済む事なり。総じて多能なる者は下劣に見え、肝要の所が大方になるものなり。
書き下し
武芸に貪着(とんじゃく)して、弟子など取りて武士を立つると思う人多し。骨を折りて、ようやく芸者(げいしゃ)にならるるは惜しき事なり。芸能は事欠かぬ分に仕習(しなら)うて済む事なり。総じて多能なる者は下劣に見え、肝要の所が大方(おおかた)になるものなり。
現代語訳
武芸にのめり込み、弟子を取ってその道で名を立てようと考える人が多い。だが、さんざん苦労して、ようやく(一芸に秀でた)芸事の達人になるというのは、惜しいことだ。芸能というものは、日常に事欠かない程度に身につけておけばそれで十分なのだ。総じて、あれもこれもと多芸な者はかえって品位が低く見え、肝心かなめのところがおろそかになりがちである。
解説
武芸にのめり込んで一芸の達人(芸者)を目指すことを、あえて戒めた一条です。武士の本分は主君への奉公と武辺の覚悟にあり、技芸はそれを支える手段にすぎない。だから芸事は日常に困らない程度でよく、そこに精力を注ぎすぎて「芸の達人」になるのはむしろ本末転倒だというのです。さらに、多芸を誇る者ほど品が下がって見え、肝心の本業がおろそかになる、と指摘します。『葉隠』には「藝は身を亡す」と説く条もあり、一貫した価値観です。現代の文脈でいえば、器用にあれこれ手を広げるより、本当に大切な一点に力を集めることの大切さ、そして手段が目的化する危うさへの警鐘として読めるでしょう。
この章句が説くこと
本分を見失わない多芸は無芸手段と目的一点集中肝要を大切にする器用貧乏の戒め
関連する章句
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葉隠・聞書第一万(よろ)づの芸能も、武道奉公(ぶどうほうこう)の為にと心に構えてすれば、用に立ちてよきなり。多分(たぶん)芸好(げいずき)になるものなり。学問など就中(なかんずく)危(あや)うきなり。
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大学財を生ずるに大道有り。之を生ずる者衆(おお)くして、之を食らう者寡(すくな)く、之を為す者疾(と)くして、之を用いる者舒(ゆるや)かなれば、則ち財恒(つね)に足る。仁者は財を以て身を発(ひら)き、不仁者は身を以て財を発く。未だ上(かみ)仁を好んで下(しも)義を好まざる者は有らざるなり。未だ義を好んで其の事終えざる者は有らざるなり。未だ府庫(ふこ)の財其の財に非ざる者は有らざるなり。
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呂氏春秋・貴生⑥凡そ聖人の動作するや、必ず其の之く所以と其の為す所以とを察す。今、此に人有り、隨侯の珠を以て、千仞の雀を彈てば、世必ず之を笑わん。是れ何ぞや。用いる所の重くして、要する所の輕ければなり。夫れ生は豈に特に隨侯の珠の重きのみならんや。
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「大人なる者は、言必ずしも信ならず。行い必ずしも果ならず。惟だ義の在る所のままなり。」
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『韓非子』難一第三十六臣大逆を行うに、平公喜びて之を聴く。是れ君の道を失うなり。
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五輪書・水の巻有㆑構無㆑構(かまへありてかまへなし)と云ふは、太刀を構ふると云ふ事、有るべき事に非ず。されども五方に置く事あれば、構へ共成るべし。太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其の敵きりよき様に持つ心なり。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もおりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構も、くらゐにより少し中へ出さば、中段・下段共なる心なり。然るに依て、構は有りて構は無きと云ふ理(ことわり)なり。先(ま)づ太刀を執りては、何れにしてなりとも、敵を切ると云ふ心なり。若(も)し敵の切る太刀を、受くる・はる・あたる・ねばる・さはるなど云ふ事あれども、皆皆敵を切る縁(えん)なりと心得べし。受くると思ひ、はると思ひ、あたると思ひ、ねばると思ひ、さはると思ふに依て、切る事不足なるべし。何事も切る縁と思ふ事肝要なり。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数たてと云ふも構なり。皆合戦に勝つ縁なり。いつくと云ふ事悪し。能々工夫すべし。