葉隠 / 聞書第一
修行に於ては、これ迄成就といふ事はなし。成就と思ふ所、その儘道に背くなり。一生の間、不足々々と思ひて、思ひ死するところ、後より見て、成就の人なり。純一無雜に打成り、一片になる事は、なか〳〵一生に成り兼ぬべし。まじり物ありては、道にあらず。奉公武邊一片になれ。
新字:修行に於ては、これ迄成就といふ事はなし。成就と思ふ所、その儘道に背くなり。一生の間、不足々々と思ひて、思ひ死するところ、後より見て、成就の人なり。純一無雑に打成り、一片になる事は、なか〳〵一生に成り兼ぬべし。まじり物ありては、道にあらず。奉公武辺一片になれ。
書き下し
修行(しゅぎょう)においては、これまで成就(じょうじゅ)ということはなし。成就(じょうじゅ)と思(おも)うところ、そのまま道(みち)に背(そむ)くなり。一生(いっしょう)の間(あいだ)、不足(ふそく)不足(ふそく)と思(おも)いて、思(おも)い死(じ)にするところ、後(のち)より見(み)て、成就(じょうじゅ)の人(ひと)なり。純一無雑(じゅんいつむざつ)に打(う)ち成(な)り、一片(いっぺん)になることは、なかなか一生(いっしょう)に成(な)り兼(か)ぬべし。まじり物(もの)ありては、道(みち)にあらず。奉公(ほうこう)武辺(ぶへん)一片(いっぺん)になれ。
現代語訳
修行には「ここまでで完成」ということはない。完成したと思った瞬間に、そのまま道から外れるのである。生涯の間、「まだ足りない、まだ足りない」と思いながら死んでいく人こそ、後から見れば完成の人だ。純粋に一つに成りきり、まじり物のない一片になることは、なかなか一生かけても成し遂げがたい。少しでもまじり物があれば、それは道ではない。奉公も武道も、ただ一筋になれ。
解説
修行に「これで完成」という到達点はない、と説く一節です。完成したと思った瞬間に、すでに道から外れている。生涯「まだ足りない、まだ足りない」と思いながら死んでいく人こそ、後から見れば完成の人だ、と言います。純粋に一つに成りきる(純一無雑・一片になる)ことは一生かけても難しく、少しでもまじり物があれば道ではない、奉公も武道も一筋になれ、と。背景には終わりなき自己鍛錬を尊ぶ思想があります。現代でも、達人ほど「まだ道半ば」と言うものです。慢心して足を止めた瞬間に成長は終わる。満たされなさを抱え続けることこそ、生涯伸び続ける人の姿だと読めるでしょう。
この章句が説くこと
終わりなき修行純一無雑一筋不足を思う慢心を戒める生涯成長
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