葉隠 / 聞書第一
武士道は死狂ひなり。一人の殺害を數十人して仕かぬるものなり。本氣にては大業はならず、氣違ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於て分別出來れば、早後るゝなり。忠も孝も入らず、武士道に於ては死狂ひなり。この内に忠孝は自ら籠るべし。
新字:武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるものなり。本気にては大業はならず、気違ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於て分別出来れば、早後るゝなり。忠も孝も入らず、武士道に於ては死狂ひなり。この内に忠孝は自ら籠るべし。
書き下し
武士道は死狂(しにぐる)ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるものなり。本気(ほんき)にては大業(たいぎょう)はならず、気違(きちが)ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於て分別(ふんべつ)出来れば、早後(はやおく)るるなり。忠も孝も入らず、武士道に於ては死狂ひなり。この内に忠孝は自(おのず)から籠(こも)るべし。
現代語訳
武士道とは死にものぐるいである。たった一人を討ち取るのに数十人がかりでも仕留めそこなうことがある。平常心のままでは大事は成し遂げられない。我を忘れ、死にものぐるいになるまでのことだ。また武士道においては、あれこれ分別が働くと、その時点でもう遅れをとる。忠も孝も考えるまでもない、武士道はただ死にものぐるいなのだ。その中に忠も孝もおのずと籠もっている。
解説
「武士道といふは死ぬ事」に連なる、『葉隠』の激しさを示す一節です。冷静な損得や理屈の分別を働かせている間に好機は去る、いざという場面では我を忘れて全力を尽くすほかない、という覚悟を説きます。「気違ひになりて」という表現は暴力の推奨ではなく、計算や迷いを断ち切った没入状態を指す誇張と読むのが自然でしょう。忠や孝といった徳目も、頭で考えて実践するのではなく、無心の全力の中に自然と含まれてくる、という逆説がここにあります。現代でも、あれこれ迷って機を逸するより、覚悟を決めて一心に事に当たる方が結果が出る場面はあります。ただし字義どおりの死や無謀の勧めではなく、迷いを断つ集中の比喩として受け取るのが穏当でしょう。
この章句が説くこと
死狂ひ無心覚悟迷いを断つ集中分別の弊害
関連する章句
-
葉隠・聞書第一途中にて俄雨にあひて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下などを通りても、濡る〳〵事は替らざるなり。初より思ひはまりて濡る〳〵時、心に苦しみなく濡る〳〵事は同じ。これ萬づにわたる心得なり。
-
葉隠・聞書第一何某申し候は、「しほがれ浪人などと云ふは難儀千萬此の上なき樣に皆人思うて、其の期には殊の外しほがれ草臥る〳〵事なり。浪人して後は左程にはなきものなり。今一度浪人仕度し。」と云ふ。尤もの事なり。死の道も、平生に死習うては、心安く死ぬべき事なり。奉公人の打留は浪人切腹に極りたると、兼ねて覺悟すべきなり。災難は前方了簡したる程には無きものなるを、先を量つて苦しむは愚かなる事なり。
-
論語 公冶長篇子曰:『士而懷居、不足以為士矣。』
-
論語 憲問篇子曰:士而懷居,不足以為士矣。
-
葉隠・聞書第一打返しは踏懸けて切殺さるゝ迄、赤穗義士の敵討は延びゝ。打返しの仕樣は、踏懸けて切殺さるゝ迄なり。これにて恥にならぬなり。仕果すべしと思ふ故、間に合はず。向は大勢などと云ひて時を移し、しまり止めになる相談に極まるなり。相手何千人もあれ、片端より撫切と思ひ定めて、立向ふ迄にて成就なり。多分仕濟ますものなり。又淺野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが落度なり。又主を討たせて、敵を討つ事延びゝなり。若し、その内に吉良殿病死の時は殘念千萬なり。上方衆は智慧かしこき故、褒めらるゝ仕樣は上手なれども、長崎喧嘩の樣に無分別にする事はならぬなり。又曾我殿夜討も殊の外の延引。幕の紋見物の時、祐成圖をはづしたり。不運の事なり。五郎申樣見事なり。總じて斯樣の批判はせぬものなれども、これも武道の吟味なれば申すなり。前方に吟味して置かねば、行當りて分別出來合はぬ故、大かた恥になり候。話を聞覺え、物の本を見るも、かねての覺悟のためなり。就中、武道は今日の事も知らずと思ひて、日々夜々に簡條を立てゝ吟味すべき事なり。時の行掛りにて勝負はあるべし。恥をかゝぬ仕樣は別なり。死ぬ迄なり。これには智慧も業も入らぬなり。死ぬ迄といふは勝負を考へず、無二無三に死狂ひするばかりなり。これにて夢覺むるなり。
-
葉隠・聞書第一古人の覺悟は深き事なり。十三以上六十以下出陣と云ふ事あり。それ故に、古老は年をかくすといへり。