葉隠 / 聞書第一
又天變これある時、世上に必ず惡事出來る事は、旛雲を見ては何事ぞ有るべしと、人々我と心に怪事を生じ、惡事を待つ故に、其の心より惡事出來するなり。張良が石公の書を傳へたると云ひ、義經は天狗の傳を繼ぐなどと云ふは、兵法一流建立の爲なり。
新字:又天変これある時、世上に必ず悪事出来る事は、旛雲を見ては何事ぞ有るべしと、人々我と心に怪事を生じ、悪事を待つ故に、其の心より悪事出来するなり。張良が石公の書を伝へたると云ひ、義経は天狗の伝を継ぐなどと云ふは、兵法一流建立の為なり。
書き下し
また天変これある時、世上(せじょう)に必ず悪事出来(いでき)る事は、旛雲(はたぐも)を見ては何事ぞ有るべしと、人々我と心に怪事(かいじ)を生じ、悪事を待つ故に、その心より悪事出来(いでき)するなり。張良(ちょうりょう)が石公(せきこう)の書を伝えたると云い、義経(よしつね)は天狗(てんぐ)の伝を継ぐなどと云うは、兵法一流(へいほういちりゅう)建立(こんりゅう)の為なり。
現代語訳
また、天変が起きたときに世の中で必ず悪い事が起こるように見えるのは、旗雲などを見て「何か起こるにちがいない」と、人々が自分から心の中に怪異を思い描き、悪い事を待ち構えるためで、その心こそが悪事を呼び起こすのだ。張良が石公(黄石公)から兵書を授かったとか、義経が天狗から兵法を伝授されたなどというのは、自分の兵法の一流派を打ち立てるための(作り話の)方便である。
解説
前条に続き、天変と凶事の結びつきは人の心が作り出す、と説く一節です。旗雲などの異変を見て「何か起こる」と身構える心が、かえって悪い事態を招き寄せる、という指摘は、思い込みが現実を左右するという鋭い洞察です。さらに、張良が仙人から兵書を授かった、義経が天狗に兵法を習ったといった伝説も、流派の権威づけのための創作だと喝破します。超自然に頼らず、物事を人の心理や意図の側から冷静に読み解く姿勢が一貫しています。現代でも、不安を先取りして身構えることが失敗を呼んだり、権威づけの神話に惑わされたりすることはあります。現象の裏にある人間の心の働きを見抜け、という合理的な視点を示した教えと言えるでしょう。
この章句が説くこと
思い込みの力自己成就合理的思考権威づけの神話心が現実を作る冷静な洞察
関連する章句
-
葉隠・聞書第一常に無き事あれば怪事(かいじ)と云いて、何事の前表(ぜんぴょう)かと云い扱うは愚かなる事なり。帚星(ほうきぼし)、旛雲(はたぐも)、光物(ひかりもの)、六月の雪、師走(しわす)の雷(かみなり)などは、五十年百年の間に有る事なり。陰陽(いんよう)運行にて出現するなり。日の東より出(い)でて、西に入るも、常に無き事ならば、怪事と云うべし。是(これ)に替(かわ)る事なし。
-
葉隠・聞書第一盛衰(せいすい)を以て、人の善悪は、沙汰(さた)されぬ事なり。盛衰は天然(てんねん)の事、善悪は人の道なり。されど、教訓の為には、盛衰を以て云うなり。
-
葉隠・聞書第一主君・頭人(とうにん)の気風(きふう)をはかり、我が為に勤むる者は、たとへ十度図りて当るとも、一度図りて迦(はず)したる時、滅亡して汚(きたな)な崩しをするなり。手前(てまえ)に一定(いちじょう)したる忠心なく、私曲邪智(しきょくじゃち)の深きよりする事なり。
-
葉隠・聞書第一途中にて俄雨(にわかあめ)にあいて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下(のきした)などを通りても、濡るる濡るる事は替わらざるなり。初めより思いはまりて濡るる濡るる時、心に苦しみなく濡るる濡るる事は同じ。これ万(よろ)づにわたる心得なり。
-
葉隠・聞書第一何某(なにがし)申し候は、「しおがれ浪人などと云うは、難儀千万(なんぎせんばん)この上なき様に皆人思うて、その期(ご)には殊(こと)の外(ほか)しおがれ草臥(くたび)るる事なり。浪人して後(のち)は左程(さほど)にはなきものなり。今一度(いまいちど)浪人仕(つかまつ)りたし。」と云う。もっともの事なり。死の道も、平生(へいぜい)に死習(しになら)うては、心安(こころやす)く死ぬべき事なり。奉公人の打留(うちどめ)は浪人切腹(せっぷく)に極(きわ)まりたると、兼ねて覚悟すべきなり。災難は前方(ぜんぽう)了簡(りょうけん)したる程には無きものなるを、先を量(はか)つて苦しむは愚かなる事なり。
-
葉隠・聞書第二佞悪の者の仕方は、人の上(うえ)の非を見出し聞き出して、語り広げ慰むなり。「何某(なにがし)こそ斯様(かよう)の悪事故、御究(おきわ)めにも逢い、閉門蟄居(へいもんちっきょ)仕り候。」などと、無き事までも言いはやかし、世上(せじょう)普(あまね)く取沙汰させて其の者の耳に入れ、さては此の事顕れ候と存じ、まず病気分(びょうきぶん)にて引入り候時、「我が身に悪事ある故、手前から引取りたり。」と、歴々(れきれき)の耳にも入れ、止む事なく悪事になる様に仕なすものなり。此の手を知らで、うろたうる者を笑い、悪事になして面白がり、又我が身のための工みにも仕るものにて候。度々ありし事なり。広き御家中なれば、斯様の佞悪の者、いつの世にもあるものなり。覚悟すべき事なり。