葉隠 / 聞書第一
學問はよき事なれども、多分、失出來るものなり。ある者を見ても、我が心の非を知るべき爲にすれば、其の儘用に立つなり。然れども斯樣には成り兼ぬるものなり。大方見解が高くなり、理好きになるなり。江南和尙の禁めの通りなり。
新字:学問はよき事なれども、多分、失出来るものなり。ある者を見ても、我が心の非を知るべき為にすれば、其の儘用に立つなり。然れども斯様には成り兼ぬるものなり。大方見解が高くなり、理好きになるなり。江南和尙の禁めの通りなり。
書き下し
学問(がくもん)はよき事なれども、多分(たぶん)、失(しつ)出来(いでく)るものなり。ある者を見ても、我が心の非(ひ)を知るべき為(ため)にすれば、そのまま用に立つなり。然れども斯様(かよう)には成り兼(か)ぬるものなり。大方(おおかた)見解(けんげ)が高くなり、理好(りず)きになるなり。江南和尚(こうなんおしょう)の禁(いまし)めの通りなり。
現代語訳
学問はよいことだが、たいてい弊害も生じるものである。何を見聞きしても、それを自分の心の非を知るための手立てとするなら、そのまま役に立つ。しかし、なかなかそうはできないものだ。多くは見識ばかりが高くなり、理屈好きになってしまう。かつて江南和尚が戒めたとおりである。
解説
学問そのものを否定するのではなく、その使い方を戒めた一節です。知識を得ると、人はつい見識が高くなったつもりになり、理屈をこねて他人を裁きたくなる。そうなれば学問はかえって害になる、と説きます。『葉隠』は行動と覚悟を重んじる武士道の書であり、知識を頭でっかちの飾りにすることを繰り返し戒めます。本来学問は、自分の非、つまり自らの至らなさに気づくための鏡であるべきだという考えです。現代でも、学びや資格を他人へのマウントや評論の道具にするのか、自分を省みる手がかりにするのかで、その価値は大きく変わってきます。知れば知るほど謙虚に、というこの姿勢は、学び続ける人ほど心に留めたい視点でしょう。
この章句が説くこと
学問の落とし穴自省我が非を知る謙虚さ知識の使い方頭でっかち
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説苑・君道宋大水す。魯人之を弔いて曰く、「天淫雨を降らし、谿谷満盈し、延いて君の地に及び、以て執政を憂えしむ、臣をして敬んで弔わしむ」と。宋人之に応えて曰く、「寡人不佞にして、斎戒謹まず、邑封修まらず、人を使うこと時ならず、天殃を加え、又君の憂いを遺す、命を拝するの辱を」と。君子之を聞きて曰く、「宋国其れ庶幾からんか」と。問いて曰く、「何の謂いぞや」と。曰く、「昔夏の桀殷の紂は其の過ちを任ぜず、其の亡ぶるや忽焉たり。成湯文武は其の過ちを任ずることを知り、其の興るや勃焉たり。夫れ過ちて之を改むるは、是れ猶お過たざるがごとし。故に曰く其れ庶幾からんかと」と。宋人之を聞き、夙に興き夜に寐ね、早に朝し晏に退き、死を弔い疾を問い、力を宇内に戮す。三年にして、歳豊かに政平らかなり。嚮に宋人をして君子の語を聞かざらしめば、則ち年穀未だ豊かならずして国未だ寧からず。詩に曰く、「時の仔肩を佛け、我に顕徳の行いを示す」と、此を之れ謂うなり。
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