葉隠 / 聞書第一
何某、大坂へ數年相勤め、罷下り、請役所へ罷出で候節、上方口にて物を申され候に付、無興千萬の物笑にて候。それに付、江戸上方へ久しく詰め候節は、常よりも御國口を開き申すべき事に候。おのづと其の風に移り、御國方の事は田舍風と見おとし、他方に少しも理の聞えたる事の候時は、それを羨み申す儀、何の味も存ぜず、うつけたる事なり。御國は田舍風にて初心なるが御重寶に候。他所風まね候ては似せ物にて候。或人、春岳へ、「法華宗は情がこはき物にて候。」と申され候。春岳申され候は、「情のこはき物なり。情のこはくなければ他宗にて宜しからず。」と申され候。
新字:何某、大坂へ数年相勤め、罷下り、請役所へ罷出で候節、上方口にて物を申され候に付、無興千万の物笑にて候。それに付、江戸上方へ久しく詰め候節は、常よりも御国口を開き申すべき事に候。おのづと其の風に移り、御国方の事は田舎風と見おとし、他方に少しも理の聞えたる事の候時は、それを羨み申す儀、何の味も存ぜず、うつけたる事なり。御国は田舎風にて初心なるが御重宝に候。他所風まね候ては似せ物にて候。或人、春岳へ、「法華宗は情がこはき物にて候。」と申され候。春岳申され候は、「情のこはき物なり。情のこはくなければ他宗にて宜しからず。」と申され候。
書き下し
何某(なにがし)、大坂(おおさか)へ数年(すうねん)相勤(あいつと)め、罷(まか)り下(くだ)り、請役所(うけやくしょ)へ罷り出で候節(せつ)、上方口(かみがたぐち)にて物を申され候に付き、無興千万の物笑(ものわら)ひにて候。それに付き、江戸(えど)上方へ久しく詰(つ)め候節は、常よりも御国口(おくにぐち)を開き申すべき事に候。おのづとその風(ふう)に移り、御国方(おくにがた)の事は田舎風と見おとし、他方(たほう)に少しも理(り)の聞こえたる事の候時は、それを羨(うらや)み申す儀(ぎ)、何の味(あじ)も存(ぞん)ぜず、うつけたる事なり。御国は田舎風にて初心なるが御重宝(ごちょうほう)に候。他所風(よそふう)まね候ては似(に)せ物にて候。或(ある)人、春岳(しゅんがく)へ、「法華宗(ほっけしゅう)は情(じょう)がこはき物にて候」と申され候。春岳申され候は、「情のこはき物なり。情のこはくなければ他宗(たしゅう)にて宜(よろ)しからず」と申され候。
現代語訳
上方言葉(京・大坂の言葉)を使うのは全くしらけたことで、この国元では田舎風で素朴なほうが重宝である。ある者が大坂に数年勤めて帰り、請役所に出仕したとき、上方なまりで話したので、全くしらけた物笑いの種になった。だから、江戸や上方に長く詰めていたときほど、いつも以上に国元の言葉で話すべきなのだ。知らぬ間にその土地の風に染まり、国元のことを田舎くさいと見下し、他国に少しでも理屈の通ったことがあると、それをうらやむのは、物事の本当の味わいもわからぬ、間の抜けたことだ。この国は田舎風で素朴なところがこそ値打ちがある。よその風を真似れば、しょせん偽物だ。ある人が春岳に「法華宗は情(信心)が強情なものですね」と言った。春岳は「情の強いものだ。情が強くなければ、他宗と変わらずよくない」と答えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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葉隠・聞書第一何某(なにがし)は気性者(きしょうもの)なり、何某の前にてかような儀を申し候(そうろう)」と話す人あり。それが面(つら)に似合わぬ言い分なり。曲者(くせもの)と言われたきまでなり。卑(いや)しき位なり。青き所がある人と見えたり。そのように、人の前にて物を言うは槍持(やりもち)中間(ちゅうげん)の出会い同然にて賤(いや)しき事なり。「侍たる者は、まず礼儀正しきとこそ美しけれ」と。扇・鼻紙・料紙・臥具(がぐ)などは、少しよき物にても苦しからざるなり。居宅・衣裳・諸道具など面(つら)に似合わぬ事する人多し。
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葉隠・聞書第一山崎蔵人(くらんど)の、見え過ぐる奉公人はわろしと申されたるは名言なり。忠の不忠の、義の不義の、当介(とうがい)の不当介のと理非邪正(りひじゃしょう)の当りに、心の附くが嫌なり。無理無体(むりむたい)に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思えば、それにて済むことなり。これはよき御被官(ごひかん)なり。奉公に好き過ぎたるは悪しきと申し候えども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過ぎ、過(とが)あるが本望なり。理の見ゆる人は、多分少しの所に滞り、一生をむだに暮し、残念の事なり。誠に儚(はかな)き一生なり。只々無二無三がよきなり。二つになるが嫌なり。万事を捨てゝ、奉公三昧に極りたり。忠の義のといふ、立ち上りたる理窟が返す返す嫌なり。
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葉隠・聞書第一何事も人よりは一段立ち上りて見ねばならず。同じあたりにぐどつきて、がたひしと当り合ひになる故、はつきりとしたる事なし。何某(なにがし)身上(しんしょう)崩しの事を諸人(しょにん)嘲(あざけ)り申し候。又「御主人の御懇(ごこん)も御だしからざる事にて候に、不運にて残念の事。有難くも存ぜず。」と申す人候故、「さてさて不当介(ふとうがい)の人かな、志深き者はだまさるるが一入(ひとしお)嬉しきものにて候。」と、申し聞け候なり。
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葉隠・聞書第一少し理窟(りくつ)などを合点(がてん)したる時は、頓(やが)て高慢(こうまん)して、我今の世間に合はぬ生附(うまれつき)などと云ひて、我が上(うえ)あらじと思ふは、天罰あるべきなり。何様(いかよう)の能事(のうじ)持ちたりとも、人の好かぬ者は役に立たず。御用に立つ事、奉公する事には好きて、随分(ずいぶん)へりくだり、朋輩(ほうばい)の下に居るを悦ぶ心入(こころいれ)の者は、諸人(しょにん)嫌はぬものなり。「さてさて振(ふ)りある秘蔵(ひぞう)の者共(ものども)。」
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葉隠・聞書第二山崎蔵人申され候は、「見え過ぐる奉公人はわろし」と、これ金言にて候。或は理非の穿鑿(せんさく)強く、又は無常を観じ、隠者を好み、風雅を好む、世の中、事繁き都などと見なし、仏道修行にて生死を離れ、詩歌の翫(もてあそ)び、風雅を好む、これは、我が一身を安楽にして心を浄く持つばかりなり。奉公人には第一の禁物。斯くの如き者は皆腰抜けなり。世間に無学文盲にして奉公一偏に精を入れ、又は妻子以下の育てに心掛くる者は、一生見事に暮すなり。奉公人にてはありながら、坐禅を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に、興を促する人は、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家、隠者にもあらず、見苦しき有様なり。しからずと申す事あり。これは障りまでにはなるまじく候。さりながら、家職一偏に心掛け候えば、隙(ひま)とて少しの隙もなきものなり。隙のあるは未だ打ちはまらざる故なり。老功の士の一言は厚きことなり。蔵人年寄役の時分、俳諧はやり、殿中にても俳諧する人多く候えども、蔵人一人終に仕習い申されず、「御用済み候えば、各々は俳諧なされ候え。」と申し候て、帰り申され候。隠居以後、連歌三昧にて日を暮し申され候由。
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葉隠・聞書第一何某(なにがし)、今の役にて音物(いんもつ)を受けず、其の上返したる時、拠所(よんどころ)無くして家来共が潜かに留め置きて、時々に手形をとらせ候由。其の外、一惣(いっそう)取り入り、云い入り、頼み事ならず、佐嘉(さが)中取り沙汰の由に候。初心なる事にて候。欲深にはましなれども、真の志にはあらず、我が身立ち候仕方なり。今時、此の分する衆もなき故、欲は内心に離れ、目に立たぬ様にするが、ならぬものなり。