葉隠 / 聞書第一
直茂公の御壁書に、「大事の思案は輕くすべし。」とあり。一鼎の註には、「小事の思案は重くすべし。」と致され候。大事と云ふは、二三箇條ならではあるまじく候。これは平生に詮議して見れば知れて居るなり。兼ては不覺悟にして、其の場に臨んで輕く分別する事も成り難く、圖に當る事不定なり。然れば兼て地盤をすゑて置くが、「大事の思案は輕くすべし。」と仰せられ候箇條の基と思はるゝなり。
新字:直茂公の御壁書に、「大事の思案は軽くすべし。」とあり。一鼎の註には、「小事の思案は重くすべし。」と致され候。大事と云ふは、二三箇条ならではあるまじく候。これは平生に詮議して見れば知れて居るなり。兼ては不覚悟にして、其の場に臨んで軽く分別する事も成り難く、図に当る事不定なり。然れば兼て地盤をすゑて置くが、「大事の思案は軽くすべし。」と仰せられ候箇条の基と思はるゝなり。
書き下し
直茂公(なおしげこう)の御壁書(おかべがき)に、「大事(だいじ)の思案(しあん)は軽(かる)くすべし」とあり。一鼎(いってい)の註(ちゅう)には、「小事(しょうじ)の思案は重くすべし」と致され候。大事と云ふは、二三箇条(かじょう)ならではあるまじく候。これは平生(へいぜい)に詮議(せんぎ)して見れば知れて居るなり。兼ては不覚悟(ふかくご)にして、其の場に臨んで軽く分別(ふんべつ)する事も成り難く、図(ず)に当る事不定(ふじょう)なり。然れば兼て地盤(じばん)を据ゑて置くが、「大事の思案は軽くすべし」と仰せられ候箇条の基(もとい)と思はるゝなり。
現代語訳
直茂公(鍋島直茂)の壁書に「大事の思案は軽くすべし」とある。石田一鼎の註では「小事の思案は重くすべし」とされている。大事といっても、せいぜい二つ三つの事柄しかないはずだ。それは普段からよく吟味しておけば分かっているものである。日頃の覚悟がないままでは、その場に臨んで軽やかに判断することもできず、狙いどおりに当たるかどうかも定まらない。だからこそ、あらかじめ土台を据えておくことが、「大事の思案は軽くすべし」と仰せられた条の根本なのだと思われる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
葉隠・聞書第一打返しの仕様(しよう)は、踏懸けて切り殺さるるまでなり。これにて恥(はじ)にならぬなり。仕果(しは)たすべしと思ふゆゑ、間(ま)に合はず。向(むこう)は大勢(おおぜい)などと云ひて時を移し、しまり止(どめ)になる相談に極(きわ)まるなり。相手何千人もあれ、片端(かたはし)より撫切(なでぎ)りと思ひ定めて、立ち向ふまでにて成就(じょうじゅ)なり。多分(たぶん)仕(し)済ますものなり。又(また)浅野殿(あさのどの)浪人(ろうにん)夜討(ようち)も、泉岳寺(せんがくじ)にて腹切らぬが落度(おちど)なり。又主(しゅ)を討たせて、敵(かたき)を討つ事延び延びなり。若(も)し、その内に吉良殿(きらどの)病死の時は残念千万なり。上方衆(かみがたしゅう)は智慧(ちえ)かしこきゆゑ、褒めらるる仕様は上手(じょうず)なれども、長崎喧嘩(ながさきけんか)の様に無分別(むふんべつ)にする事はならぬなり。又曾我殿(そがどの)夜討も殊(こと)の外(ほか)の延引(えんいん)。幕(まく)の紋(もん)見物(けんぶつ)の時、祐成(すけなり)図(ず)をはづしたり。不運の事なり。五郎(ごろう)申し様(よう)見事なり。総(そう)じてかやうの批判(ひはん)はせぬものなれども、これも武道(ぶどう)の吟味(ぎんみ)なれば申すなり。前方(ぜんぽう)に吟味して置かねば、行(ゆ)き当りて分別(ふんべつ)出来(でき)合はぬゆゑ、おおかた恥になり候。話を聞き覚え、物の本を見るも、かねての覚悟のためなり。就中(なかんずく)、武道は今日の事も知らずと思ひて、日々夜々(ひびよよ)に箇条(かじょう)を立てて吟味すべき事なり。時の行掛(ゆきがか)りにて勝負はあるべし。恥をかかぬ仕様は別(べつ)なり。死ぬまでなり。これには智慧も業(わざ)も入らぬなり。死ぬまでといふは勝負を考へず、無二無三(むにむざん)に死狂(しにぐる)ひするばかりなり。これにて夢(ゆめ)覚むるなり。
-
論語・憲問篇子曰く、「君子の道なる者三つ、我能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。」子貢曰く、「夫子自ら道うなり。」
-
葉隠・聞書第一勘定者(かんじょうもの)はすくたるる者なり。仔細(しさい)は、勘定は損得の考(かんがえ)するものなれば、常に損得の心絶えざるなり。死は損、生は得なれば、死ぬる事をすかぬ故、すくたるるものなり。又、学問者(がくもんしゃ)は才智弁口(さいちべんこう)にて、本体(ほんたい)の臆病(おくびょう)・欲心などを仕かくすものなり。人の見誤(みあやま)る所なり。
-
『配所残筆』配所殘筆(15)然ども軍法兵法之議論被仕候者、其方前にて口の明可申樣者不存候、就夫當年五十三歲に至り耻入候得共、今日初て誓詞仕、其方兵學の弟子に成申度由御申候故、私申候者、私事左樣に被思召被下候事、別而忝奉存候、古戰物語武功者度々御咄承候て、拙者儀不淺大慶仕候、何事にも御相傳など有之儀者不存寄候由申候得共、達而御望故、任御意宗古老御誓詞候、其時分林九郎右衞門事彌三郎と申候て、宗古念頃にて居被申候故、能可被存候、寬文六年午十月三日未上刻北條安房守殿より手紙被差越候、 切紙自筆 可相尋御用之事候間、早々私宅迄可被參候以上、 十月三日 北條安房守 山鹿甚五左衞門殿 切紙之御答御手紙被成下、謹而奉拜見候、御尋可被成御用之儀御坐候間、早々貴宅迄參上可仕候旨、畏奉存候、追付參上可仕候、以上、 十月三日 山鹿甚五左衞門 房州樣如斯相認遣候、夕料理未被下候故、食事心快認候而行水仕、定而只事にて有之間敷存、乍立遺書相調殘置候、尤死罪被仰付候はゞ公儀へ一通差上可相果、是又相認令懷中候、此外五六ヶ所へ小翰相調、態と老母方へ不申遣、宗三寺へ參詣仕、下人成程はぶき、若黨兩人召連、馬上にて房州公へ參候、四日には津輕公へ可被召寄兼約御座候つるを、
-
『春秋左氏伝』哀公十一年 艾陵の戦い吳は髮短し」と。東郭書曰く、「三たび戰へば必ず死す。此に於て三たびなり」と。弦多に問はしむるに琴を以てして曰く、「吾復た子を見ざらん」と。陳書曰く、「此の行や、吾鼓を聞くのみ、金を聞かず」と。甲戌、艾陵に戰ふ。展如高子を敗り、國子胥門巢を敗る。王卒之を助け、大いに齊の師を敗り、國書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書、革車八百乘、甲首三千を獲て、以て公に獻ず。將に戰はんとするとき、吳子叔孫を呼びて曰く、「而(なんぢ)の事は何ぞや」と。對へて曰く、「司馬に從ふ」と。王之に甲・劍・鈹を賜ひて曰く、「爾の君の事を奉じ、敬みて命を廢すること無かれ」と。叔孫未だ對ふる能はず。衛賜進みて曰く、「州仇甲を奉じて君に從ひて拜す」と。公大史固をして國子の元を歸さしむ。之を新篋に寘き、之に褽(し)くに玄纁を以てし、組帶を加へ、書を其の上に寘きて曰く、「天若し衷ならざるを識らずんば、何を以て下國を使はんや」と。吳將に齊を伐たんとす。
-
『武士道』第四章 勇・敢爲堅忍の精神・かねて無き身と思い知らずば故に毫も外物の窘迫する所とならず、常に他を容れて、多々益す弁ずるものあるなり。史に伝ふ、江戸城の開祖たる太田道灌、かつて戦場に若武者の首級を獲るや、惻然として之を憫み、「かかる時さこそ命の惜しからめ、かねて無き身と思ひ知らずば」の和歌を詠じて之を弔せり。然るに後、道灌の讒に会ひて、浴室に刺さるるや、神色変ぜず、手づから槍幹を抑へ、「昨日まで、まま妄執を入れおきし、へんなし袋、今やぶりけん」と、一首の狂歌を吟じて絶命せりと云ふ。道灌たるもの、亦た自から、かねて無き身と思ひ知らずば、いかでか能くかくの如きを得んや。丈夫の心中、常に磊々落々たるものあり、凡夫の一大事は勇士の一笑事に過ぎず。されば古への戦に、両雄陣に臨み、剣戟を交ふるに当りて、なお且つ連歌を闘はしたるのためしも尠からず。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る