葉隠 / 聞書第一
不義を嫌うて義を立つる事成り難きものなり。然れども義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる所に却つて誤り多きものなり。義より上に道は有るなり。これを見附くる事なり難し。高上の賢智なり。これより見る時は、義などは細きものなり。我が身に覺えたる時ならでは知れぬものなり。但し我こそ見附くべき事成らずとも、この道に到り樣はあるなり。人に談合なり。たとへ道に到らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。
新字:不義を嫌うて義を立つる事成り難きものなり。然れども義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる所に却つて誤り多きものなり。義より上に道は有るなり。これを見附くる事なり難し。高上の賢智なり。これより見る時は、義などは細きものなり。我が身に覚えたる時ならでは知れぬものなり。但し我こそ見附くべき事成らずとも、この道に到り様はあるなり。人に談合なり。たとへ道に到らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。
書き下し
不義(ふぎ)を嫌(きら)うて義(ぎ)を立つる事成り難きものなり。然(しか)れども義を立つるを至極(しごく)と思ひ、一向(いっこう)に義を立つる所に却(かえ)つて誤(あやま)り多きものなり。義より上に道は有るなり。これを見附(みつ)くる事なり難し。高上(こうじょう)の賢智(けんち)なり。これより見る時は、義などは細(こま)きものなり。我が身に覚(おぼ)えたる時ならでは知れぬものなり。ただし我こそ見附くべき事成らずとも、この道に到(いた)り様(よう)はあるなり。人に談合なり。たとへ道に到らぬ人にても、脇(わき)から人の上(うえ)は見ゆるものなり。
現代語訳
碁でも「傍目八目(岡目八目)」といって、打っている当人より脇で見ている者のほうが手がよく見える。同じように、道に到達するには、絶えず自分の非を知り(念々知非)、人に相談することだが、これはなかなか難しい。不義を嫌って義を立てることさえ難しいものだ。しかし、義を立てることを最高だと思い込み、ひたすら義を貫こうとすると、かえって誤りが多くなる。義よりさらに上に「道」があるのだ。これを見つけるのが難しく、高い賢明さがいる。この高みから見れば、義などは細かなものにすぎない。自分の身で会得したときでなければわからないものだ。ただし、自分自身では見つけられなくとも、この道に至る方法はある。人に相談することだ。たとえ道に達していない人でも、脇から他人のことはよく見えるものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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老子 第24章企つ者は立たず;跨ぐ者は行かず;自らを見る者は明らかならず;自ら是とする者は彰れず;自ら伐る者は功無し;自ら矜る者は長からず。その道に在るや、余食贅行と曰う。物或いはこれを悪む。故に道有る者はこれに処らず。
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老子・第61章大国は下流なり、天下の交わり、天下の牝なり。牝は常に静を以て牡に勝ち、静を以て下と為す。故に大国以て小国に下れば、則ち小国を取る。小国以て大国に下れば、則ち大国を取る。故に或いは下りて以て取り、或いは下りて而して取らる。大国は人を兼ね畜わんと欲するに過ぎず、小国は入りて人に事えんと欲するに過ぎず。夫れ両者は各々其の欲する所を得るも、大なる者は宜しく下と為るべし。
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論語・陽貨篇孔子曰わく、五つのことを天下に行うこと能わば、仁と為す。これを問う。曰わく、恭・寛・信・敏・恵なり。恭なれば侮られず、寛なれば衆を得、信なれば人これに任じ、敏なれば功あり、恵なれば人を使うに足る。
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老子・第28章其の雄を知りて其の雌を守れば、天下の谿と為る。天下の谿と為れば、常徳は離れず、嬰児に復帰す。其の白を知りて其の黒を守れば、天下の式と為る。天下の式と為れば、常徳は忒わず、無極に復帰す。其の栄を知りて其の辱を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常徳は乃ち足り、樸に復帰す。樸散ずれば則ち器と為る。聖人之を用うれば則ち官長と為る。故に大制は割かず。
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老子・第66章江海の能く百谷の王と為る所以の者は、其の善く之に下るを以てなり。故に能く百谷の王と為る。是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下る。民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る。是を以て聖人は上に処りて民は重しとせず、前に処りて民は害とせず。是を以て天下は推すことを楽しみて厭わず。其の争わざるを以て、故に天下能く之と争う莫し。