葉隠 / 聞書第一
幻はマボロシと訓むなり。天竺にては、術師の事を幻術師と云ふ。世界は皆からくり人形なり。幻の字を用ふるなり。
書き下し
幻(まぼろし)はマボロシと訓(よ)むなり。天竺(てんじく)にては、術師(じゅつし)のことを幻術師(げんじゅつし)といふ。世界は皆(みな)からくり人形(にんぎょう)なり。幻の字を用(もち)ふるなり。
現代語訳
「幻」の字は「まぼろし」と読む。天竺(インド)では、術者のことを幻術師と呼ぶ。この世界はすべて、からくり人形のようなものだ。だから「幻」の字を用いるのである。
解説
この世を「からくり人形」にたとえた、短くも印象深い一条です。人も物事も、糸で操られる人形のように儚(はかな)く、実体のない幻のようなものだ、という無常観がにじみます。『葉隠』の根底には「常住死身(じょうじゅうしにみ)」、つまり常に死を覚悟して生きる姿勢があり、この世を幻と観じる見方はそれと響き合います。世界を幻と見るのは虚無ではなく、執着を手放して身軽に生きるための視点です。現代でも、地位や損得に強くしがみつくと身動きが取れなくなります。すべてを「からくり」と一歩引いて眺めると、かえって目の前の務めに淡々と向き合えることがあるでしょう。
この章句が説くこと
無常幻執着を手放すからくり人形儚さ身軽さ
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