葉隠 / 聞書第一
翌日の事は、前晩よりそれぞれ案じ、書附け置かれ候。これも、諸事人より先にはかるべき心得なり。何方へ兼約にて御出での節は、前夜より、向樣の事を萬事萬端、挨拶話、御話に何方に參り候時は、時宜等の事を案じ、書附け置かれ候。和の道なり。禮儀なり。又貴人などより呼ばれ候時、苦勞に思うて行けば座附出來ぬものなり。偖々忝なき事かな、さこそ面白かるべきと思入りて行きたるがよし。總じて用事の外は、呼ばれぬ所に行かぬがよし。招請に逢はば、俸もよき客振りかなと思はるる樣にせぬは客にてはなし。いづれその座のすべを前方より服して行くが大事なり。酒などの事が第一なり。立ちしほが入つたものなり。飽かれもせず、早くも歸らざる樣にありたきなり。又常々の事にも、馳走など斟酌を仕過ぎ、すも却つてわるきなり。一度二度云うて、その上には、それを取持ちたるがよし。此くの如きなり。
新字:翌日の事は、前晩よりそれぞれ案じ、書附け置かれ候。これも、諸事人より先にはかるべき心得なり。何方へ兼約にて御出での節は、前夜より、向様の事を万事万端、挨拶話、御話に何方に参り候時は、時宜等の事を案じ、書附け置かれ候。和の道なり。礼儀なり。又貴人などより呼ばれ候時、苦労に思うて行けば座附出来ぬものなり。偖々忝なき事かな、さこそ面白かるべきと思入りて行きたるがよし。総じて用事の外は、呼ばれぬ所に行かぬがよし。招請に逢はば、俸もよき客振りかなと思はるる様にせぬは客にてはなし。いづれその座のすべを前方より服して行くが大事なり。酒などの事が第一なり。立ちしほが入つたものなり。飽かれもせず、早くも帰らざる様にありたきなり。又常々の事にも、馳走など斟酌を仕過ぎ、すも却つてわるきなり。一度二度云うて、その上には、それを取持ちたるがよし。此くの如きなり。
書き下し
翌日の事は、前晩よりそれぞれ案じ、書附(かきつ)け置かれ候。これも、諸事人より先にはかるべき心得なり。何方(いずかた)へ兼約(けんやく)にて御出(おい)での節は、前夜より、向様(むこうさま)の事を万事万端(ばんじばんたん)、挨拶話、御話に何方に参り候時は、時宜(じぎ)等の事を案じ、書附け置かれ候。和(わ)の道なり。礼儀なり。又貴人などより呼ばれ候時、苦労に思うて行けば座附(ざつき)出来ぬものなり。偖々(さてさて)忝(かたじけ)なき事かな、さこそ面白かるべきと思入(おもいい)りて行きたるがよし。総じて用事の外は、呼ばれぬ所に行かぬがよし。招請(しょうせい)に逢わば、〔さて〕もよき客振りかなと思わるる様にせぬは客にてはなし。いずれその座のすべを前方(ぜんぽう)より服して行くが大事なり。酒などの事が第一なり。立ちしお(引き際)が入ったものなり。飽かれもせず、早くも帰らざる様にありたきなり。又常々(つねづね)の事にも、馳走(ちそう)など斟酌(しんしゃく)を仕過(しす)ぎ、〔辞退〕するも却って悪きなり。一度二度云うて、その上には、それを取持ちたるがよし。かくの如きなり。
現代語訳
客として招かれて行くなら、よい客ぶりを心がけ、飽きられもせず、また早々に帰りもしないように――と書き留めておかれた。これも、何事も人より先に見通して備える心得である。どこかへ約束して出かけるときは、前夜のうちから、先方のこと、交わす挨拶や話題、どこへ伺ったときの立ち居振る舞い(時宜)まで、あれこれ思いめぐらして書き留めておかれた。これが人と和する道であり、礼儀である。また、貴人などから招かれたとき、気が重いと思って行けば、その場になじめないものだ。「なんとありがたいことか、さぞ面白かろう」と心を弾ませて行くのがよい。総じて、用事のあるとき以外は、呼ばれてもいない所へは行かないのがよい。招かれて行くなら、「さても結構な客ぶりだ」と思われるようにできない者は、客の資格がない。いずれにせよ、その場の作法をあらかじめ心得て行くことが大切だ。とりわけ酒の席のふるまいが第一である。引き際が肝心なものだ。飽きられもせず、早々に帰りもしないようにありたい。また日ごろの付き合いでも、ご馳走などを遠慮しすぎて辞退するのは、かえってよくない。一度二度は辞退して、その上は素直に受けて場を取り持つのがよい。こういうものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』閔公元年 心苟くも瑕無くば士蒍曰く、「大子立つを得ず。之に都城を分かちて、位するに卿を以ってす。先づ之が爲に極めたり、又焉んぞ立つを得ん。之を逃るるに如かず、罪をして至らしむる無かれ。吳の大伯と爲る、亦た可ならずや。猶ほ令名有り、其の及ぶよりは與し。且つ諺に曰く、『心苟くも瑕無くば、何ぞ家無きを恤へん』と。天若し大子に祚せば、其れ晉無からんや」と。卜偃曰く、「畢萬の後必ず大ならん。萬は、盈數なり。魏は、大名なり。是を以って始めて賞す、天之を啟けり。天子を兆民と曰ひ、諸侯を萬民と曰ふ。今之に名づくるに大を以ってし、以って盈數に從ふ、其れ必ず眾有らん」と。初め、畢萬晉に仕へんことを筮し、《屯》の《比》に之くに遇ふ。辛廖之を占ひて曰く、「吉なり。《屯》は固く、《比》は入る、吉孰れか焉より大ならん。其れ必ず蕃昌せん。《震》土と爲り、車馬に從ひ、足之に居り、兄之に長たり、母之を覆ひ、眾之に歸す。六體易らず、合して能く固く、安くして能く殺す、公侯の卦なり。公侯の子孫は、必ず其の始めに復らん」と。
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易経・遯卦周易 第三十三卦。艮下乾上。易経。遯は、亨る。小しく貞しきに利ろし。初六、遯るるに尾たり、厲し、往く攸有るに用うる勿かれ。六二、之を執うるに黄牛の革を用う、之を説くに勝うる莫し。九三、系りて遯る、疾有りて厲し、臣妾を畜えば吉。九四、好しとして遯る、君子は吉、小人は否ず。九五、嘉く遯る、貞にして吉。上九、肥かに遯る、利ろしからざる无し。彖に曰く、
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史記 李斯列伝離宮別館を治め、天下に周遍す。明年、又巡狩し、外は四夷を攘ふ。斯皆力有り。斯の長男由は三川の守と為り、諸男は皆秦の公主を尚り、女は悉く秦の諸公子に嫁ぐ。三川の守李由告帰して咸陽に至る。李斯家に置酒す。百官の長皆前みて寿を為し、門廷の車騎千を以て数ふ。李斯喟然として歎じて曰く、「嗟乎、吾之を荀卿に聞く、曰く『物は大いに盛んなるを禁ず』と。夫れ斯は乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首なり。上其の駑下を知らず、遂に擢きて此に至る。当今人臣の位に臣の上に居る者無し。富貴極まれりと謂ふべし。物極まれば則ち衰ふ。吾未だ税駕する所を知らざるなり」と。始皇の三十七年十月、行きて出でて会稽に游び、海上に並ひて、北のかた琅邪に抵る。丞相斯・中車府令趙高の符璽令の事を兼ね行ふもの、皆従ふ。始皇に二十余子有り。長子扶蘇、数々直諫するを以て、上之をして兵を上郡に監せしめ、蒙恬将たり。少子胡亥愛せられ、従はんことを請ふ。上之を許す。余子従ふ莫し。其の年七月、始皇帝沙丘に至り、病甚だし。趙高をして書を為りて公子扶蘇に賜はしめて曰く、「兵を以て蒙恬に属し、喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、未だ使者に授けずして、始皇崩ず。書及び璽皆趙高の所に在り。独り子胡亥・丞相李斯・趙高及び幸宦者五六人のみ始皇の崩ぜしを知り、余の群臣は皆知る莫きなり。李斯以為へらく、上外に在りて崩じ、真の太子無し、故に之を秘すと。始皇を轀輬車の中に置き、百官事を奏し食を上ること故の如し。宦者輒ち轀輬車の中より諸々の奏事を可とす。趙高因りて扶蘇に賜ふ所の璽書を留め、而して公子胡亥に謂ひて曰く、「上崩じ、諸子を王に封ずるの詔無くして独り長子に書を賜ふ。長子至らば、即ち立ちて皇帝と為り、而して子は尺寸の地無し。之を為すこと奈何」と。胡亥曰く、「固より也。
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『春秋左氏伝』成公二年 背城借一諸侯何ぞ害せん。然らずんば、寡君の使臣に命ずるや、則ち辭有り。曰く、「子君の師を以て敝邑に辱くす。不腆の敝賦、以て從者を犒ふ。君の震を畏れ、師徒橈敗す。吾子惠みて齊國の福を徼め、其の社稷を泯ぼさず、舊好を繼がしめば、唯だ是れ先君の敝器土地は敢へて愛まず。子又許さずんば、請ふ餘燼を收合して、城を背にして一を借らん。敝邑の幸あらば、亦た云に從はん。況んや其れ不幸ならば、敢へて唯だ命を是れ聽かざらんや」と。魯・衛諫めて曰く、「齊我を疾めり。其の死亡する者は、皆親暱なり。子若し許さずんば、我を讎とすること必ず甚だしからん。唯だ子なれば則ち又何をか求めん。子其の國寶を得、我も亦た地を得て難に紓ぶ。其の榮多し。齊・晉も亦た唯だ天の授くる所なり、豈に必ずしも晉ならんや」と。晉人之を許す。對へて曰く、「群臣賦輿を帥ゐて、以て魯・衛の為に請ふ。若し苟くも以て口を藉る有りて、寡君に復せば、君の惠なり。敢へて唯だ命を是れ聽かざらんや」と。禽鄭師より公を逆ふ。
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葉隠・聞書第一方々(ほうぼう)招請(しょうせい)に参られ心入(こころい)れになり、話など致され候由(そうろうよし)。この前(まえ)数年(すうねん)の内も、人の為になることばかりを楽(たの)しみ、極々(ごくごく)の奉公好(ほうこうず)きなり。それゆゑ一(ひと)かど御用(ごよう)には立たれ候。人は得意な方に老耄する者なれば、奉公老耄(ほうこうろうもう)、人の為になりても老耄はあぶなきなり。老人は他出せぬが重(おも)くして、しまりよきなり。
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史記 留侯世家矰繳有りと雖も、尚ほ安くにか施す所あらん」と。歌ふこと数闋、戚夫人噓唏して流涕す、上起ちて去り、酒を罷む。竟に太子を易へざりし者は、留侯の本此の四人を招きし力なり。留侯上に従ひて代を撃ち、奇計を馬邑の下に出だし、及び蕭何を相国に立つ、上と従容として天下の事を言ふ所甚だ衆きも、天下の存亡する所以に非ず、故に著さず。留侯乃ち称して曰く、「家世々韓に相たり、韓の滅ぶるに及び、万金の資を愛しまず、韓の為に讐を彊秦に報い、天下振動す。今三寸の舌を以て帝者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位す、此れ布衣の極みなり、良に於て足れり。願はくは人間の事を棄て、赤松子に従ひて游ばんと欲するのみ」と。乃ち辟穀を学び、道引して身を軽くす。会々高帝崩じ、呂后留侯を徳とし、乃ち彊ひて之に食はしめて、曰く、「人生一世の間、白駒の隙を過ぐるが如し、何ぞ自ら苦しむこと此くの如きに至るや」と。留侯已むを得ず、彊ひて聴きて食ふ。後八年にして卒し、謚して文成侯と為す。子不疑代はりて侯たり。子房始め見る所の下邳の圯上の老父の太公の書を与へし者、後十三年高帝に従ひて済北を過ぎ、果たして穀城山下の黄石を見、取りて之を葆祠す。留侯死し、并せて黄石と葬る。冢に上る伏臘毎に、黄石を祠る。留侯不疑、孝文帝五年不敬に坐し、国除かる。太史公曰く、学者多く鬼神無しと言ふ、然れども物有りと言ふ。留侯の見る所の老父の書を予ふるが如きに至りては、亦た怪しむべし。高祖困しみに離ること数々なり、而して留侯常に功力有り、豈に天に非ずと謂ふべけんや。上曰く、「夫れ策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず」と。余以為へらく其の人は計魁梧奇偉ならんと、其の図を見るに至りては、状貌婦人好女の如し。蓋し孔子曰く、「貌を以て人を取れば、之を子羽に失ふ」と。留侯も亦た云ふ。

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