師導古典を学びたいすべての人に

葉隠 / 聞書第一

武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。圖に當らぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武道なるべし。二つ〳〵の場にて、圖に當るやうにするは及ばぬ事なり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰抜なり。この境危きなり。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に〳〵、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

新字:武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武道なるべし。二つ〳〵の場にて、図に当るやうにするは及ばぬ事なり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜なり。この境危きなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に〳〵、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

書き下し

武士道というは、死ぬ事と見附(みつ)けたり。二つ二つ(ふたつふたつ)の場にて、早く死ぬ方に片附(かたづ)くばかりなり。別に仔細(しさい)なし。胸すわって進むなり。図(ず)に当らぬは犬死(いぬじに)などという事は、上方風(かみがたふう)の打上(うちあ)がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るようにするは及ばぬ事なり。我人(われひと)、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。もし図にはずれて生きたらば、腰抜(こしぬ)けなり。この境(さかい)危きなり。図にはずれて死にたらば、犬死・気違(きちが)いなり。恥にはならず。これが武道に丈夫(じょうぶ)なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身(じょうじゅうじにみ)になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度(おちど)なく、家職(かしょく)を仕果(しはた)すべきなり。

現代語訳

武士道とは、死ぬことだと見極めた。生きるか死ぬか二つに一つの場面では、早く死ぬ方に片をつけるまでだ。特別な理屈はいらない。腹を据えて進むのである。目論見どおりにいかない死は犬死にだ、などというのは、上方(かみがた)ふうの調子に乗った武道であろう。生きるか死ぬかの場で、うまく図に当てようとするのは無理な話だ。人は誰しも生きる方が好きで、たいてい好きな方へ理屈をつけてしまう。もし図をはずして生き延びれば腰抜けであり、この分かれ目が危うい。図をはずして死んだとしても、犬死に・狂気と言われるだけで、恥にはならない。これが武道に徹した確かな在り方だ。毎朝毎夕、繰り返し死を覚悟し、常に死身になっていれば、武道に自由を得て、一生落ち度なく、務めを果たせるのである。

解説

『葉隠』を象徴する、あまりにも有名な一節です。一見すると死を美化する過激な言葉に見えますが、山本常朝の真意は「死を覚悟して初めて、人は迷いなく生きられる」という点にあります。損得や保身を計算していては、いざというとき体がすくむ。あらかじめ死を受け入れておけば、かえって恐れが消え、自由に、全力で務めを果たせる、という逆説です。毎朝毎夕、繰り返し覚悟せよと説くのも、覚悟が一度きりでなく日々の更新を要するからです。現代でも、最悪を先に引き受けておくことで、かえって思い切って挑戦できる場面は多い。死の覚悟という極限の形で「捨てる勇気が自由を生む」ことを説いた言葉です。

この章句が説くこと

武士道死の覚悟覚悟が自由を生む捨てる勇気常住死身葉隠

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる