五輪書 / 火の巻
おびゆると云事物毎に有事也思ひよらぬ事におびゆる心也大分の兵法にしても敵をおびやかす事眼前の事に非ず或は物の声にてもおびやかし或は小を大にしておびやかし又かたわきより不斗おびやかす事是おびゆる所也其おびゆる拍子を得て其利を以て勝べし一分の兵法にしても身を以ておびやかし太刀を以ておびやかし声を以ておびやかし敵の心になき事をしかけておびゆる所の利を受て其儘勝を得る事肝要也能々吟味有べし
書き下し
おびゆると云ふ事、物毎に有る事なり。思ひよらぬ事におびゆる心なり。大分の兵法にしても、敵をおびやかす事、眼前の事に非ず。或は物の声にてもおびやかし、或は小を大にしておびやかし、又かたわきより不斗(ふと)おびやかす事、是れおびゆる所なり。其のおびゆる拍子を得て、其の利を以て勝つべし。一分の兵法にしても、身を以ておびやかし、太刀を以ておびやかし、声を以ておびやかし、敵の心になき事をしかけて、おびゆる所の利を受けて、其の儘勝を得る事肝要なり。能々(よくよく)吟味有るべし。
現代語訳
「おびゆる(脅えさせる・おびやかす)」ということは、何ごとにもある。思いもよらないことに人は脅えるものだ。大きな兵法(合戦)でも、敵をおびやかすのは目の前で見えるものとは限らない。物音(声)でおびやかし、小さいものを大きく(見せて)おびやかし、また横合いから不意におびやかす――これが脅えを生むところだ。その脅えた拍子を捉えて、その隙で勝つべきである。小さな兵法(個人戦)でも、体でおびやかし、太刀でおびやかし、声でおびやかし、敵の予想にないことを仕掛けて脅えさせ、その隙をそのまま利用して勝つことが肝要だ。よくよく吟味すべきである。
解説
相手を「おびやかす(脅えさせる)」ことで隙を作る一段です。武蔵は、人は「思いもよらないこと」に脅えると見抜き、その心理を突く手を並べます。物音、実際より大きく見せる誇張、横合いからの不意打ち――いずれも、相手の予想の外から刺激を与えて動揺させる手法です。前段までの「むかつかす(動揺)」「うろめかす(混乱)」と連なる、相手の平常心を崩す心理戦の系譜にあります。ポイントは、脅えは一瞬で、その「脅えた拍子」を逃さず即座に突くこと。相手を怖がらせること自体が目的ではなく、脅えて硬直・動揺した隙を勝ちに変えることが目的です。予想外の刺激で相手の心を一瞬すくませ、その隙を取る――交渉やスポーツで相手の意表を突いて主導権を奪う場面に通じる、心理の急所を押さえた一段です。
この章句が説くこと
おびやかす意表を突く脅えの拍子心理戦平常心を崩す隙を取る
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