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五輪書 / 火の巻

移らかすと云は物毎に有もの也或はねむりなども移り或はあくびなどのうつるもの也時のうつるも有大分の兵法にして敵うはきにしてことをいそぐ心の見ゆる時は少しも夫にかまはざる様にしていかにもゆるりとなりて見すれば敵も我事に受てきざしたるむ物なり其うつりたると思ふ時我方より空の心にしてはやく強くしかけて勝利を得るもの也一分の兵法にしても我身も心もゆるりとして敵のたるみの間をうけて強く早く先にしかけて勝所専也 亦よわすると云て是に似たる事有一ツはたいくつの心一ツはうかつく心一ツはよわくなる心能々工夫有べし

書き下し

移(うつ)らかすと云ふは、物毎に有るものなり。或はねむりなども移り、或はあくびなどのうつるものなり。時のうつるも有り。大分の兵法にして、敵うはきにして、ことをいそぐ心の見ゆる時は、少しも夫(それ)にかまはざる様にして、いかにもゆるりとなりて見すれば、敵も我事に受けて、きざしたるむものなり。其のうつりたると思ふ時、我方より空(くう)の心にして、はやく強くしかけて、勝利を得るものなり。一分の兵法にしても、我身も心もゆるりとして、敵のたるみの間をうけて、強く早く先(せん)にしかけて勝つ所専なり。亦(また)よわすると云て、是に似たる事有り。一ツはたいくつの心、一ツはうかつく心、一ツはよわくなる心。能々(よくよく)工夫有るべし。

現代語訳

「移(うつ)らかす」というのは、何ごとにもあるものだ。眠気も移り、あくびも移るものである。(気分の)時も移る。大きな兵法(合戦)で、敵が浮ついて、事を急ぐ気持ちが見えるときは、少しもそれにかまわないようにして、こちらはいかにもゆったりと構えて見せる。すると敵もこちらの様子を受け取って、(急いていた)気配が緩むものだ。その(緩みが)移ったと思うとき、こちらは無心(空)の心で、素早く強く仕掛けて勝ちを得るのである。小さな兵法(個人戦)でも、自分は体も心もゆったりとして、敵の緩みの隙を捉えて、強く早く先手を仕掛けて勝つことが専一だ。また「弱わす(弱らせる)」といって、これに似たことがある。一つは退屈させる心、一つは浮つかせる心、一つは弱気にさせる心(を移す)。よくよく工夫すべきである。

解説

感情や状態の「伝染」を利用する「移らかす」を説く、心理戦として秀逸な一段です。武蔵はまず「あくびや眠気が移るように、気分は伝染する」という日常観察から入ります。敵が浮ついて焦っているとき、こちらは逆に、いかにもゆったり構えて見せる。すると、こちらの落ち着きが相手に「移り」、相手の焦りや気合いが緩む。その緩みが移った瞬間を、無心で素早く突いて勝つ、というのです。相手の状態に引きずられるのではなく、こちらの状態を相手に感染させて、相手を望む状態(緩み)に導く。しかも武蔵は応用として、退屈・浮つき・弱気なども同様に「移せる」と言い添えます。自分の落ち着きや余裕を相手に伝播させて相手を崩す――これは交渉やチームの空気づくりにも通じます。感情は伝染するという原理を、受け身でなく能動的に使いこなす、心理操作の妙を示した一段です。

この章句が説くこと

うつらかす感情の伝染落ち着きを移す心理戦相手を緩ませる無心の先

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