五常訓 / 巻之一・総論
是を以て、人心に四德ある證とすべし。惻隱は、いたみいたむと訓む。人のうれひ苦むを見ては、あはれみいたむを云ふ。是仁の心のあらはるゝ端なり。もし人の憂苦を見ながら、あはれむ心無くんば、仁無きなり。羞惡とは、はぢにくむと訓む。惡むとは嫌ふなり。わが不義なるを恥ぢ、人の不義なるを嫌ふ。是義の端なり。もし人の不義をきらはず、わが不義を恥ぢずんば、義なきなり。辭讓は、我が身に取るを辭退して受けざるは辭なり。人にゆづりて與ふるは讓なり。飮食するを以ていはゞ、飮食を辭して、まづ人にゆづり與ふるを云ふ。是禮の端なり。もし讓らずして、爭ひうばはゞ、是禽獸のわざにして、禮にあらず。是非とは、事の善なるをば善と知りて是とし、不善なるをば不善と知りて非とす。
新字:是を以て、人心に四徳ある証とすべし。惻隠は、いたみいたむと訓む。人のうれひ苦むを見ては、あはれみいたむを云ふ。是仁の心のあらはるゝ端なり。もし人の憂苦を見ながら、あはれむ心無くんば、仁無きなり。羞悪とは、はぢにくむと訓む。悪むとは嫌ふなり。わが不義なるを恥ぢ、人の不義なるを嫌ふ。是義の端なり。もし人の不義をきらはず、わが不義を恥ぢずんば、義なきなり。辞譲は、我が身に取るを辞退して受けざるは辞なり。人にゆづりて与ふるは譲なり。飲食するを以ていはゞ、飲食を辞して、まづ人にゆづり与ふるを云ふ。是礼の端なり。もし譲らずして、争ひうばはゞ、是禽獣のわざにして、礼にあらず。是非とは、事の善なるをば善と知りて是とし、不善なるをば不善と知りて非とす。
書き下し
是を以て、人心に四徳ある証とすべし。惻隠は、いたみいたむと訓む。人のうれひ苦むを見ては、あはれみいたむを云ふ。是仁の心のあらはるる端なり。もし人の憂苦を見ながら、あはれむ心無くんば、仁無きなり。羞悪とは、はぢにくむと訓む。悪むとは嫌ふなり。わが不義なるを恥ぢ、人の不義なるを嫌ふ。是義の端なり。もし人の不義をきらはず、わが不義を恥ぢずんば、義なきなり。辞譲は、我が身に取るを辞退して受けざるは辞なり。人にゆづりて与ふるは譲なり。飲食するを以ていはば、飲食を辞して、まづ人にゆづり与ふるを云ふ。是礼の端なり。もし譲らずして、争ひうばはば、是禽獣のわざにして、礼にあらず。是非とは、事の善なるをば善と知りて是とし、不善なるをば不善と知りて非とす。
現代語訳
これによって、人の心に四徳があることの証拠とすべきです。惻隠は「いたみいたむ」と訓読みします。人が憂え苦しむのを見て、あわれみいたむことをいいます。これは仁の心が現れる端です。もし人の憂いや苦しみを見ながら、あわれむ心がなければ、仁がないのです。羞悪とは「はじにくむ」と訓読みします。悪むとは嫌うことです。自分の不義を恥じ、人の不義を嫌うことです。これは義の端です。もし人の不義を嫌わず、自分の不義を恥じなければ、義がないのです。辞譲は、自分の身に取るのを辞退して受けないのが辞です。人に譲って与えるのが譲です。飲食でいえば、飲食を辞退して、まず人に譲り与えることをいいます。これは礼の端です。もし譲らずに争い奪えば、それは鳥や獣のしわざであって、礼ではありません。是非とは、事の善いものを善と知って是とし、善くないものを善くないと知って非とすることです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之一・総論一仁義礼智の四徳、古今天下の人の心に、皆生れつきてそなはれる事、何を以てか知るや。四端あるを以て知れり。四端とは、惻隠、羞悪、辞譲、是非を云ふ。是仁義礼智の四徳、心の内にありて、物にふれて自ら心上におこりて、外にあらはるるを云ふ。故に四端と名づく。端とは、物内にありて見えずといへども、其端少し外にあらはれ出づるを以て、其物の内にあることを知るが如し。仁義礼智の性、心の内にありて、いまだ起らざる時は、其有無見るべからずといへども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隠となり、義は羞悪となり、礼は恭敬となり、智は是非となる。もし内に、仁義礼智の四徳なくんば、必此四端あらはるべからず。内にある故に、外に四端あらはる。
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『五常訓』巻之二・仁之上一四徳四端、いづれも四の者をならべ説くといへども、其はじめ、まづ仁心なければ、必義礼智なし。惻隠の心なくては、生理ほろび、心かたくなに愚にして、羞悪辞譲是非の端もおこらず。たとへば石の頑にして、生気もなく、心もなきが如し。俗語に、物のあはれを知らざるは、木石の如しといへるが如し。又身のなえしびれたる所は、刀にてつき、火にてやけども痛をおほえざるが如し。仁は生理なり、あはれみなり。あはれみ無くて、物のあはれを知らざる人は、義理もなく、礼もなく、知慧もなきものなり。是惻隠なければ四端なし。惻隠の四端を兼ねたる所なり。
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『五常訓』巻之一・総論是智の端なり。もし是非をわきまへずんば、智なきなり。此四端は、人となれる者は必あり。此四端あるを以て、仁義礼智内にあることを知るべし。又如何なる愚なる人も、親を愛し、君をたふとび、兄を敬ひ、弟をあはれみ、善をほめ、悪を悪まざる者なし。是仁義あればなり。飢寒する人を見ては、あはれむ心おこるは、仁あればなり。又小人といへども、我がいつはりあらはれ、不義を人に知らるれば、赤面し、汗をながす。是義あればなり。凡かやうの類、物にふれて、善心おこること多し。みづから心見て知るべし。皆是仁義礼智の四徳を生れつきたるにあらずや。ここを以て、孟子は、人の性は善なりとのたまふ。もし五常の徳なくんば、何ぞ性は善なりといはんや。
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざるの心有り、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治むること、之を掌上に運らす可し。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(たちまち)ち孺子の將に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。譽を鄉黨朋友に要むる所以に非ざるなり。其の聲を惡んで然るに非ざるなり。是に由りて之を觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭讓の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其の四體有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能わざると謂う者は、自ら賊う者なり。其の君能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。凡そ我に四端有る者は、皆擴して之を充たすことを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。苟くも能く之を充たさば、以て四海を保んずるに足る。苟くも之を充たさざれば、以て父母に事うるに足らず。」
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『大和俗訓』巻之一・為学上性とは人の心に生れつきたる理をいふ、此五性は、いにしへ今天下の人、高き賤しきも、さかし愚なるも、おしなべて天地より生れつきて、万世迄も相かはることなき故に、五常といふ。常とは変らざるなり。中につきて、仁はあはれみの心なり。是を以て四徳をかねたり。義は宜しきなり。行ふ所各其物に相応するを云ふ。礼はうやまふ心、つつしみて侮らざるを云ふ。智は明かにさとる心、道理に通ずるなり。仁義礼も智なければ行ふすべを知らず。義礼智は皆仁より出で、仁をたすくる理なり。信はまことなり。仁義礼智の心信にして偽なきを云ふ。まことなければ仁義礼智にあらず。凡此五常の性にしたがひて、人倫に対してなさけふかく、あつく行ふを人の道とす。
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『初学訓』巻之一一仁義礼智の真実にして偽なき理を信といふ。信はまことなり。まことなければ、仁義礼智も偽となり、万の善も、皆あだことなり。仁義礼智の四徳に、信をくはへて五常とす。又、五性といふ。性とは、心に生れつきたる理なり。此五性は、万世まで人にうまれつきて、かはらざる理なれば、五常といふ。百行万善、皆五常より出づ。五常を以て、万善をかねたり。人の心とするは、此五にあり。此外に心を求むるは、天地聖人の道にあらず。
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