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五行大義 / 第十四論雑配・第四論配蔵府

孝經援神契云。肝仁。故目視。肺義。故鼻候。心禮。故耳司。腎信。故竅寫。脾智。故口誨。元命苞曰。目。肝使。肝氣仁而外照。管子曰。脾發爲鼻。肝發爲目。腎發爲耳。肺發爲口。心發爲下竅。道家太平經云。肝神不在。目無光明。心神不在。唇青白。肺神不在。鼻不通。腎神不在。耳聾。脾神不在。舌不知甘味。又一說云。目主肝。耳主腎。鼻主心。舌主脾。口主肺。肝腎二藏。諸經竝同。肝主目者。肝。木藏也。木是陽。東方顯明之地。眼目亦光顯照了。故通乎目。道家太式經云。天曰洞視。主目。目主肝。天。陽也。肝亦陽。目精明。亦陽。目光顯見。兼有常法。如日陽精無缺而明也。腎主耳者。腎。水藏。水。陰也。北方陰暗之地。耳能聽聲。聲是陰微之象。故通乎耳。太式經曰。地曰洞聽。主耳。耳主腎。地。陰也。耳法虛。則納聲。水主虛。陰主虛。陰主幽。陰聲又非恒。如月盈虛也。脾心肺三藏及候。各有異說。甲乙以鼻應肺。道家以鼻應心。管子以鼻應脾。甲乙應肺者。鼻以空虛納氣。肺亦虛而受氣。故也。

新字:孝経援神契云。肝仁。故目視。肺義。故鼻候。心礼。故耳司。腎信。故竅写。脾智。故口誨。元命苞曰。目。肝使。肝気仁而外照。管子曰。脾発為鼻。肝発為目。腎発為耳。肺発為口。心発為下竅。道家太平経云。肝神不在。目無光明。心神不在。唇青白。肺神不在。鼻不通。腎神不在。耳聾。脾神不在。舌不知甘味。又一説云。目主肝。耳主腎。鼻主心。舌主脾。口主肺。肝腎二蔵。諸経並同。肝主目者。肝。木蔵也。木是陽。東方顕明之地。眼目亦光顕照了。故通乎目。道家太式経云。天曰洞視。主目。目主肝。天。陽也。肝亦陽。目精明。亦陽。目光顕見。兼有常法。如日陽精無欠而明也。腎主耳者。腎。水蔵。水。陰也。北方陰暗之地。耳能聴声。声是陰微之象。故通乎耳。太式経曰。地曰洞聴。主耳。耳主腎。地。陰也。耳法虚。則納声。水主虚。陰主虚。陰主幽。陰声又非恒。如月盈虚也。脾心肺三蔵及候。各有異説。甲乙以鼻応肺。道家以鼻応心。管子以鼻応脾。甲乙応肺者。鼻以空虚納気。肺亦虚而受気。故也。

書き下し

『孝経援神契』に云う、肝は仁、故に目視る。肺は義、故に鼻候(うかが)う。心は礼、故に耳司る。腎は信、故に竅写す。脾は智、故に口誨(おし)う、と。『元命苞』に曰く、目は肝の使なり。肝気は仁にして外に照らす、と。『管子』に曰く、脾は発して鼻と為り、肝は発して目と為り、腎は発して耳と為り、肺は発して口と為り、心は発して下竅(かきょう)と為る、と。道家の『太平経』に云う、肝神在らざれば、目に光明無し。心神在らざれば、唇青白し。肺神在らざれば、鼻通ぜず。腎神在らざれば、耳聾す。脾神在らざれば、舌甘味を知らず、と。又一説に云う、目は肝を主り、耳は腎を主り、鼻は心を主り、舌は脾を主り、口は肺を主る、と。肝・腎の二蔵は、諸経並びに同じ。肝の目を主るとは、肝は木の蔵なり。木は是れ陽、東方顕明の地なり。眼目も亦光顕照了す。故に目に通ず。道家の『太式経』に云う、天を洞視と曰い、目を主る。目は肝を主る。天は陽なり、肝も亦陽なり。目の精明なるも亦陽なり。目光顕見し、兼ねて常法有り、日の陽精の欠くること無くして明らかなるが如し、と。腎の耳を主るとは、腎は水の蔵なり。水は陰なり。北方陰暗の地なり。耳は能く声を聴く。声は是れ陰微の象なり。故に耳に通ず。『太式経』に曰く、地を洞聴と曰い、耳を主る。耳は腎を主る。地は陰なり。耳は虚に法る、則ち声を納る。水は虚を主り、陰は虚を主り、陰は幽を主る。陰声も又恒ならず、月の盈虚するが如し、と。脾・心・肺の三蔵及び候は、各々異説有り。甲乙は鼻を以て肺に応じ、道家は鼻を以て心に応じ、管子は鼻を以て脾に応ず。甲乙の肺に応ずとは、鼻は空虚を以て気を納れ、肺も亦虚にして気を受く。故なり。

現代語訳

『孝経援神契』(『孝経』に付された漢代の緯書)にはこうある。肝は仁であるから目が見る。肺は義であるから鼻がうかがう。心は礼であるから耳がつかさどる。腎は信であるから穴から排出する。脾は智であるから口が教える、と。『元命苞』にはこうある。目は肝の使いである。肝の気は仁であって外を照らす、と。『管子』にはこうある。脾は外に現れて鼻となり、肝は外に現れて目となり、腎は外に現れて耳となり、肺は外に現れて口となり、心は外に現れて下の穴となる、と。道家の『太平経』(後漢に成った道教の経典)にはこうある。肝の神がいなければ目に光がない。心の神がいなければ唇が青白くなる。肺の神がいなければ鼻が通らない。腎の神がいなければ耳が聞こえなくなる。脾の神がいなければ舌が甘い味を感じない、と。また別の説ではこう言う。目は肝をつかさどり、耳は腎をつかさどり、鼻は心をつかさどり、舌は脾をつかさどり、口は肺をつかさどる、と。肝と腎の二つの臓については、どの書も同じである。肝が目をつかさどるというのは、肝は木の臓だからである。木は陽であり、東方の明るくはっきりした土地に当たる。目もまた光ってはっきりと照らし見る。だから目に通じるのである。道家の『太式経』にはこうある。天を洞視(見通すこと)といい、目をつかさどる。目は肝をつかさどる。天は陽であり、肝もまた陽である。目の澄んだ明るさもまた陽である。目の光ははっきりと現れ、そのうえ常に変わらぬ働きがあって、太陽の陽の精が欠けることなく明るいのと同じである、と。腎が耳をつかさどるというのは、腎は水の臓だからである。水は陰であり、北方の暗い土地に当たる。耳は声を聞くことができる。声はかすかな陰のかたちである。だから耳に通じるのである。『太式経』にはこうある。地を洞聴(聞き通すこと)といい、耳をつかさどる。耳は腎をつかさどる。地は陰である。耳は虚(からっぽ)にならうので声を受け入れる。水は虚をつかさどり、陰は虚をつかさどり、陰は奥深さをつかさどる。陰の声もまた常に同じではなく、月が満ち欠けするようなものである、と。脾・心・肺の三つの臓とその現れについては、それぞれ異説がある。『甲乙経』は鼻を肺に応じさせ、道家は鼻を心に応じさせ、『管子』は鼻を脾に応じさせる。『甲乙経』が肺に応じさせるのは、鼻はからっぽであることによって気を取り入れ、肺もまた虚であって気を受けるからである。

解説

五臓と感覚器官の対応について、書ごとに説が分かれていることを整理する段である。緯書の『孝経援神契』や『元命苞』、『管子』、道教の『太平経』『太式経』、医書の『甲乙経』を並べると、肝が目、腎が耳に通じる点はどの書も一致するが、鼻・舌・口を脾・心・肺のどれに当てるかは食い違う。蕭吉はまず一致する二つについて理由を述べる。肝は木で陽、東の明るい方角に当たるから、光を受けて照らす目に通じる。腎は水で陰、北の暗い方角に当たるから、かすかな陰のかたちである声を受け入れる耳に通じる。目を太陽の欠けない明るさに、耳を月の満ち欠けにたとえるところは、見ることと聞くことの性質の違いをよくとらえている。そのうえで異説を一つずつ吟味していく構えを示し、鼻が肺に応じるという医書の説を、空洞で気を取り入れるという共通点から説明する。一致点から先に固め、違いを後から検討するという進め方は、食い違う資料を扱うときの手堅い整理の型として今も参考になる。

この章句が説くこと

五行大義五官五臓太平経管子

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