学問のすゝめ / 十七編・人望論・和して真率なるにあるのみ
されば人間交際の要も和して真率なるにあるのみ。その虚飾に流るるものはけっして交際の本色にあらず。およそ世の中に夫婦親子より親しき者はあらず、これを天下の至親と称す。しこうしてこの至親の間を支配するは何ものなるや、ただ和して真率なる丹心あるのみ。表面の虚飾を却け、またこれを掃い、これを却掃し尽くして、はじめて至親の存するものを見るべし。しからばすなわち交際の親睦は、真率のうちに存して、虚飾と並び立つべからざるものなり。
書き下し
されば人間交際の要も和して真率なるにあるのみ。その虚飾に流るるものはけっして交際の本色にあらず。およそ世の中に夫婦親子より親しき者はあらず、これを天下の至親と称す。しこうしてこの至親の間を支配するは何ものなるや、ただ和して真率なる丹心あるのみ。表面の虚飾を却け、またこれを掃い、これを却掃し尽くして、はじめて至親の存するものを見るべし。しからばすなわち交際の親睦は、真率のうちに存して、虚飾と並び立つべからざるものなり。
現代語訳
ですから人の交わりの要も、和やかで飾りがないことにあるだけです。虚飾に流れるものは決して交わりの本来の姿ではありません。およそ世の中に夫婦や親子より親しい者はなく、これを天下の至親と称します。ではこの至親の間を支配するものは何か。ただ和やかで飾りのない真心があるだけです。表面の虚飾を退け、また払い、これを退け払い尽くして、はじめて至親というものが見えてきます。であれば、交わりの親しみは飾りのなさの中にあって、虚飾と並び立つことはできないものなのです。
解説
交わりの本質が二語に絞られます。和やかであることと、飾りがないこと。そして最も親しい関係である親子や夫婦が例に引かれ、そこを支配するのも同じものだと示されます。飾りを払い尽くしたところに親しさが現れる、という言い方で、前段の虚飾批判が完結します。愛想をよくせよという助言が、媚びの勧めではないことがここではっきりします。
この章句が説くこと
真率和虚飾至親本質
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