学問のすゝめ / 十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・東西の風俗習慣を交易して評論に付し
仮りに今、東西の風俗習慣を交易して開化先生の評論に付し、その評論の言葉を想像してこれを記さん。西洋人は日に浴湯して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促しもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と。日本人は寝屋の内に尿瓶を置きてこれに小便を貯え、あるいは便所より出でて手を洗うことなく、洋人は夜中といえども起きて便所に行き、なんら事故あるも必ず手を洗うの風ならば、論者評して言わん、「開化の人は清潔を貴ぶの風あれども、不開化の人民は不潔の何ものたるを知らず、けだし小児の智識いまだ発生せずして汚潔を弁ずること能わざる者に異ならず、この人民といえどもしだいに進んで文明の域に入らば、ついには西洋の美風に倣うことあるべし」と。
書き下し
仮りに今、東西の風俗習慣を交易して開化先生の評論に付し、その評論の言葉を想像してこれを記さん。西洋人は日に浴湯して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促しもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と。日本人は寝屋の内に尿瓶を置きてこれに小便を貯え、あるいは便所より出でて手を洗うことなく、洋人は夜中といえども起きて便所に行き、なんら事故あるも必ず手を洗うの風ならば、論者評して言わん、「開化の人は清潔を貴ぶの風あれども、不開化の人民は不潔の何ものたるを知らず、けだし小児の智識いまだ発生せずして汚潔を弁ずること能わざる者に異ならず、この人民といえどもしだいに進んで文明の域に入らば、ついには西洋の美風に倣うことあるべし」と。
現代語訳
仮に今、東西の風俗習慣を入れ替えて開化先生の評論にかけ、その評論の言葉を想像して記してみましょう。西洋人が毎日湯に入り、日本人の入浴が一月にわずか一、二度だとすれば、開化先生はこれを評して言うでしょう。文明開化の人民はよく湯に入って皮膚の蒸発を促し、衛生の法を守っているが、文明でない日本人はこの理を知らない、と。日本人が寝室の中に尿瓶を置いてこれに小便をため、あるいは便所から出て手を洗うことがなく、西洋人は夜中でも起きて便所に行き、どんな事情があっても必ず手を洗う風だとすれば、論者は評して言うでしょう。開化の人は清潔を尊ぶ風があるが、開化しない人民は不潔が何であるかを知らない。思うに幼児の知識がまだ芽生えず、汚いか清いかを見分けられない者と変わらない。この人民も次第に進んで文明の域に入れば、ついには西洋の美風に倣うこともあるだろう、と。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらずなんぞそれ事物を信ずるの軽々にして、またこれを疑うの粗忽なるや。西洋の文明はわが国の右に出ずること必ず数等ならんといえども、けっして文明の十全なるものにあらず。その欠点を計うれば枚挙に遑あらず。彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらず、我の習慣ことごとく醜にして疑うべきにあらず。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・ひたすら旧物を廃棄してただ新をこれ求むる東西の人民、風俗を別にし情意を異にし、数千百年の久しき、おのおのその国土に行なわれたる習慣は、たとい利害の明らかなるものといえども、とみにこれを彼に取りて是に移すべからず、いわんやその利害のいまだ詳らかならざるものにおいてをや。これを採用せんとするには千思万慮歳月を積み、ようやくその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず。しかるに近日世上の有様を見るに、いやしくも中人以上の改革者流、あるいは開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱うれば万人これに和し、およそ智識、道徳の教えより治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆西洋の風を慕うてこれに倣わんとせざるものなし。あるいはいまだ西洋の事情につきその一斑をも知らざる者にても、ひたすら旧物を廃棄してただ新をこれ求むるもののごとし。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・彼の富強はまことに羨むべしといえども西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれに倣わんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優に若かず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈して良人を窘しめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・細事を推して経済論の大義に付会して洋人は鼻汁を拭うに毎次紙を用いて直ちにこれを投棄し、日本人は紙に代わるに布を用い、したがって洗濯してしたがってまた用うるの風ならば、論者たちまち頓智を運らし、細事を推して経済論の大義に付会して言わん、「資本に乏しき国土においては、人民みずから知らずして節倹の道に従うことあり。日本全国の人民をして鼻紙を用うること西洋人のごとくならしめなば、その国財の幾分を浪費すべきはずなるに、よくその不潔を忍んで布を代用するは、みずから資本の乏しきに迫られて節倹に赴くものと言うべし」と。日本の婦人、その耳に金環を掛け、小腹を束縛して衣裳を飾ることあらば、論者、人身窮理の端を持ち出して顰蹙して言わん、「はなはだしいかな、不開化の人民、理を弁じて天然に従うことを知らざるのみならず、ことさらに肉体を傷つけて耳に荷物を掛け、婦人の体においてもっとも貴要部たる小腹を束ねて蜂の腰のごとくならしめ、もって妊娠の機を妨げ、分娩の危難を増し、その禍の小なるは一家の不幸を致し、大なるは全国の人口生々の源を害するものなり」と。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・味噌も舶来品ならば日本人が煙草を咬み、巻煙草を吹かして、西洋人が煙管を用うることあらば、「日本人は器械の術に乏しくしていまだ煙管の発明もあらず」と言わん。日本人が靴を用いて西洋人が下駄をはくことあらば、「日本人は足の指の用法を知らず」と言わん。味噌も舶来品ならばかくまでに軽蔑を受くることもなからん。豆腐も洋人のテーブルに上らばいっそうの声価を増さん。鰻の蒲焼き、茶碗蒸し等に至りては世界第一美味の飛び切りとて評判を得ることなるべし。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・日本の人はあたかも盗賊と雑居するがごとし西洋人は家の内外に錠を用うること少なく、旅中に人足を雇うて荷物を持たしめ、その行李に慥かなる錠前なきものといえども常に物を盗まるることなく、あるいは大工、左官等のごとき職人に命じて普請を請け負わしむるに、約定書の密なるものを用いずして、後日に至り、その約定につき公事訴訟を起こすことまれなれども、日本人は家内の一室ごとに締りを設けて座右の手箱に至るまでも錠を卸し、普請請負いの約定書等には一字一句を争うて紙に記せども、なおかつ物を盗まれ、あるいは違約等の事につき、裁判所に訴うること多き風ならば、論者また歎息していわん。「ありがたきかな耶蘇の聖教、気の毒なるかなパガン外教の人民、日本の人はあたかも盗賊と雑居するがごとし、これをかの西洋諸国自由正直の風俗に比すれば万々同日の論にあらず、実に聖教の行なわるる国土こそ道に遺を拾わずと言うべけれ」と。