学問のすゝめ / 十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・朝寝はすなわち朝寝にして
支那の諺に、「西施の顰みに倣う」ということあり。美人の顰みはその顰みの間におのずから趣ありしがゆえにこれに倣いしことなればいまだ深く咎むるに足らずといえども、学者の朝寝になんの趣あるや。朝寝はすなわち朝寝にして、懶惰不養生の悪事なり。人を慕うのあまりにその悪事に倣うとは笑うべきのはなはだしきにあらずや。されども今の世間の開化者流にはこの少年の輩はなはだ少なからず。
書き下し
支那の諺に、「西施の顰みに倣う」ということあり。美人の顰みはその顰みの間におのずから趣ありしがゆえにこれに倣いしことなればいまだ深く咎むるに足らずといえども、学者の朝寝になんの趣あるや。朝寝はすなわち朝寝にして、懶惰不養生の悪事なり。人を慕うのあまりにその悪事に倣うとは笑うべきのはなはだしきにあらずや。されども今の世間の開化者流にはこの少年の輩はなはだ少なからず。
現代語訳
中国の諺に、西施の顰みに倣うということがあります。美人の顰め顔はその顰みの間に自然と趣があったから倣ったのですから、まだ深く咎めるに足りませんが、学者の朝寝に何の趣があるでしょうか。朝寝は朝寝であって、怠けと不養生の悪事です。人を慕うあまりにその悪事に倣うとは、笑うべきことの甚だしいものではありませんか。しかし今の世間の開化者流には、この少年のような人々が非常に多いのです。
解説
有名な故事が引かれ、さらに突き放されます。西施の顰みにはまだ趣があったが、学者の朝寝には何もない。朝寝は朝寝で、怠けと不養生にすぎない、と。真似る対象が美しくさえないという二段構えの批判です。そして最後の一行で矛先が同時代に戻ります。開化を唱える人々の中に、この少年と同じ者が多い、と。十五編の風刺が最も効いている箇所です。
この章句が説くこと
西施模倣朝寝怠惰風刺
関連する章句
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・先生の夜話に耽りて朝寝するの癖をも譬えばここに一少年あらん。学者先生に接してこれに心酔し、その風に倣わんとしてにわかに心事を改め、書籍を買い、文房の具を求めて、日夜机に倚りて勉強するはもとより咎むべきにあらず。これを美事と言うべし。然りといえどもこの少年が先生の風を擬するのあまりに、先生の夜話に耽りて朝寝するの癖をも学び得て、ついに身体の健康を害することあらば、これを智者と言うべきか。けだしこの少年は先生を見て十全の学者と認め、その行状の得失を察せずして悉皆これに倣わんとし、もってこの不幸に陥りたるものなり。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・一身あたかも空虚なるがごとくにしてしからばすなわち今の改革者流が日本の旧習を厭うて西洋の事物を信ずるは、まったく軽信軽疑の譏を免るべきものと言うべからず。いわゆる旧を信ずるの信をもって新を信じ、西洋の文明を慕うのあまりに兼ねてその顰蹙朝寝の癖をも学ぶものと言うべし。なおはなはだしきはいまだ新の信ずべきものを探り得ずして早くすでに旧物を放却し、一身あたかも空虚なるがごとくにして安心立命の地位を失い、これがためついには発狂する者あるに至れり。憐れむべきにあらずや〔医師の話を聞くに、近来は神経病および発狂の病人多しという〕。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・ひたすら旧物を廃棄してただ新をこれ求むる東西の人民、風俗を別にし情意を異にし、数千百年の久しき、おのおのその国土に行なわれたる習慣は、たとい利害の明らかなるものといえども、とみにこれを彼に取りて是に移すべからず、いわんやその利害のいまだ詳らかならざるものにおいてをや。これを採用せんとするには千思万慮歳月を積み、ようやくその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず。しかるに近日世上の有様を見るに、いやしくも中人以上の改革者流、あるいは開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱うれば万人これに和し、およそ智識、道徳の教えより治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆西洋の風を慕うてこれに倣わんとせざるものなし。あるいはいまだ西洋の事情につきその一斑をも知らざる者にても、ひたすら旧物を廃棄してただ新をこれ求むるもののごとし。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・昨日の所信は今日の疑団となり然りしこうして今この責めに任ずる者は、他なし、ただ一種わが党の学者あるのみ。学者勉めざるべからず。けだしこれを思うはこれを学ぶに若かず。幾多の書を読み、幾多の事物に接し、虚心平気、活眼を開き、もって真実のあるところを求めなば、信疑たちまちところを異にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあらん。学者勉めざるべからざるなり。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらずなんぞそれ事物を信ずるの軽々にして、またこれを疑うの粗忽なるや。西洋の文明はわが国の右に出ずること必ず数等ならんといえども、けっして文明の十全なるものにあらず。その欠点を計うれば枚挙に遑あらず。彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらず、我の習慣ことごとく醜にして疑うべきにあらず。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・彼の富強はまことに羨むべしといえども西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれに倣わんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優に若かず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈して良人を窘しめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。