学問のすゝめ / 十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・人心の信、東にありしもの今日は西に転じたるのみ
然りといえども、わが人民の精神においてこの数千年の習慣に疑いを容れたるその原因を尋ぬれば、はじめて国を開きて西洋諸国に交わり、かの文明の有様を見てその美を信じ、これに倣わんとしてわが旧習に疑いを容れたるものなれば、あたかもこれを自発の疑いと言うべからず。ただ旧を信ずるの信をもって新を信じ、昔日は人心の信、東にありしもの、今日はそこを移して西に転じたるのみにして、その信疑の取捨如何に至りては、はたして適当の明あるを保すべからず。余輩いまだ浅学寡聞、この取捨の疑問に至り、いちいち当否を論じてその箇条を枚挙する能わざるは、もとよりみずから懺悔するところなれども、世事転遷の大勢を察すれば、天下の人心この勢いに乗ぜられて、信ずるものは信に過ぎ、疑うものは疑いに過ぎ、信疑ともにその止まるところの適度を失するものあるは明らかに見るべし。左にその次第を述べん。
書き下し
然りといえども、わが人民の精神においてこの数千年の習慣に疑いを容れたるその原因を尋ぬれば、はじめて国を開きて西洋諸国に交わり、かの文明の有様を見てその美を信じ、これに倣わんとしてわが旧習に疑いを容れたるものなれば、あたかもこれを自発の疑いと言うべからず。ただ旧を信ずるの信をもって新を信じ、昔日は人心の信、東にありしもの、今日はそこを移して西に転じたるのみにして、その信疑の取捨如何に至りては、はたして適当の明あるを保すべからず。余輩いまだ浅学寡聞、この取捨の疑問に至り、いちいち当否を論じてその箇条を枚挙する能わざるは、もとよりみずから懺悔するところなれども、世事転遷の大勢を察すれば、天下の人心この勢いに乗ぜられて、信ずるものは信に過ぎ、疑うものは疑いに過ぎ、信疑ともにその止まるところの適度を失するものあるは明らかに見るべし。左にその次第を述べん。
現代語訳
とはいえ、わが人民の精神においてこの数千年の習慣に疑いを差し挟んだ原因を尋ねれば、はじめて国を開いて西洋諸国と交わり、あの文明のありさまを見てその美を信じ、これに倣おうとして自分の旧習に疑いを差し挟んだものですから、まるで自発の疑いとは言えません。ただ旧を信じる信のままで新を信じ、昨日は人心の信が東にあったものが、今日はそれを移して西に転じただけであって、その信と疑いの取捨がどうかに至っては、果たして適当な明るさがあるとは請け合えません。私はまだ浅学で見聞も狭く、この取捨の問題についていちいち当否を論じてその箇条を数え上げられないのは、もとより自ら懺悔するところですが、世の移り変わりの大勢を察すれば、天下の人心がこの勢いに乗せられて、信じる者は信じすぎ、疑う者は疑いすぎ、信も疑いもともに止まるべき適度を失っているものがあるのは明らかに見て取れます。
解説

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