学問のすゝめ / 十四編・心事の棚卸し・平日の帳合いを精密にして
およそ商売において、最初より損亡を企つる者あるべからず。まず自分の才力と元金とを顧み、世間の景気を察して事を始め、千状万態の変に応じて、あるいは当たりあるいは外れ、この仕入れに損を蒙りかの売捌きに益を取り、一年または一ヵ月の終わりに総勘定をなすときは、あるいは見込みのとおりに行なわれたることもあり、あるいは大いに相違したることもあり、またあるいは売買繁劇の際にこの品につきては必ず益あることなりと思いしものも、棚卸しにできたる損益平均の表を見れば案に相違して損亡なることあり。あるいは仕入れのときは品物不足と思いしものも、棚卸しのときに残品を見れば、売捌きに案外の時日を費やして、その仕入れかえって多きに過ぎたるものもあり。ゆえに商売に一大緊要なるは平日の帳合いを精密にして、棚卸しの期を誤らざるの一事なり。
書き下し
およそ商売において、最初より損亡を企つる者あるべからず。まず自分の才力と元金とを顧み、世間の景気を察して事を始め、千状万態の変に応じて、あるいは当たりあるいは外れ、この仕入れに損を蒙りかの売捌きに益を取り、一年または一ヵ月の終わりに総勘定をなすときは、あるいは見込みのとおりに行なわれたることもあり、あるいは大いに相違したることもあり、またあるいは売買繁劇の際にこの品につきては必ず益あることなりと思いしものも、棚卸しにできたる損益平均の表を見れば案に相違して損亡なることあり。あるいは仕入れのときは品物不足と思いしものも、棚卸しのときに残品を見れば、売捌きに案外の時日を費やして、その仕入れかえって多きに過ぎたるものもあり。ゆえに商売に一大緊要なるは平日の帳合いを精密にして、棚卸しの期を誤らざるの一事なり。
現代語訳
およそ商売において、最初から損を企てる者はいません。まず自分の才覚と元金を顧み、世間の景気を察して事を始め、千変万化に応じて、当たることも外れることもあり、この仕入れで損を被り、あの売りさばきで益を取り、一年または一か月の終わりに総勘定をするときは、見込み通りに行ったこともあり、大いに違ったこともあります。また売り買いが忙しい際にこの品では必ず益があると思ったものも、棚卸しでできた損益平均の表を見れば予想に反して損になっていることがあります。あるいは仕入れのときは品物が足りないと思ったものも、棚卸しのときに残品を見れば、売りさばきに予想外の日数を費やして、その仕入れがかえって多すぎたものもあります。ですから商売で最も大切なのは、日ごろの帳合いを精密にして棚卸しの時期を誤らないという一事です。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十四編・心事の棚卸し・商売にて言えば棚卸しの総勘定右所論のごとく、人生の有様は徳義のことにつきても思いのほかに悪事をなし、智恵のことにつきても思いのほかに愚を働き、思いのほかに事業を遂げざるものなり。この不都合を防ぐの方便はさまざまなれども、今ここに人のあまり心づかざる一ヵ条あり。その箇条とはなんぞや。事業の成否得失につき、ときどき自分の胸中に差引きの勘定を立つることなり。商売にて言えば棚卸しの総勘定のごときものこれなり。
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『学問のすゝめ』十四編・心事の棚卸し・心の店の取締りは行き届きて他の人事もまたかくのごとし。人間生々の商売は十歳前後人心のできし時よりはじめたるものなれば、平生、智徳事業の帳合いを精密にして、勉めて損亡を引き受けざるように心がけざるべからず。「過ぐる十年の間には何を損し何を益したるや。現今はなんらの商売をなしてその繁盛の有様はいかなるや。今は何品を仕入れていずれの時いずれのところに売り捌くつもりなるや。年来心の店の取締りは行き届きて遊冶懶惰など名のる召使のために穴を明けられたることはなきや。来年も同様の商売にて慥かなる見込みあるべきや。もはや別に智徳を益すべき工夫もなきや」と、諸帳面を点検して棚卸しの総勘定をなすことあらば、過去現在、身の行状につき必ず不都合なることも多かるべし。
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『学問のすゝめ』十四編・心事の棚卸し・隣家の帳合いに助言して自家に盗賊の入るを知らず天下を治むるを知りて身を修むるを知らざる者は、隣家の帳合いに助言して自家に盗賊の入るを知らざるがごとし。口に流行の日新を唱えて心に見るところなくわが一身の何ものたるをも考えざる者は、売品の名を知りて値段を知らざるもののごとし。これらの不都合は現に今の世に珍しからず。その原因は、ただ流れ渡りにこの世を渡りて、かつてその身の有様に注意することなく、生来今日に至るまでわが身は何事をなしたるや。今は何事をなせるや。今後は何事をなすべきや」と、みずからその身を点検せざるの罪なり。ゆえにいわく、商売の有様を明らかにして後日の見込みを定むるものは帳面の総勘定なり、一身の有様を明らかにして後日の方向を立つるものは智徳事業の棚卸しなり。
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『学問のすゝめ』十四編・心事の棚卸し・冬の差入りに蚊帷を買い込むがごとしその一、二を挙ぐれば、「貧は士の常、尽忠報国」などとて、みだりに百姓の米を食い潰して得意の色をなし、今日に至りて事実に困る者は、舶来の小銃あるを知らずして刀剣を仕入れ、一時の利を得て、残品に後悔するがごとし。和漢の古書のみを研究して西洋日新の学を顧みず、古を信じて疑わざりし者は、過ぎたる夏の景気を忘れずして冬の差入りに蚊帷を買い込むがごとし。青年の書生いまだ学問も熟せずしてにわかに小官を求め、一生の間、等外に徘徊するは、半ば仕立てたる衣服を質に入れて流すがごとし。地理、歴史の初歩をも知らず、日用の手紙を書くこともむずかしくして、みだりに高尚の書を読まんとし、開巻五、六葉を見てまた他の書を求むるは、元手なしに商売をはじめて日に業を変ずるがごとし、和漢洋の書を読めども天下国家の形勢を知らず一身一家の生計にも苦しむ者は、算盤を持たずして万屋の商売をなすがごとし。
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『学問のすゝめ』十四編・心事の棚卸し・年月を経て後に考うれば人の世を渡る有様を見るに、心に思うよりも案外に悪をなし、心に思うよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。いかなる悪人にても、生涯の間勉強して悪事のみをなさんと思う者はなけれども、物に当たり事に接して、ふと悪念を生じ、わが身みずから悪と知りながら、いろいろに身勝手なる説をつけて、しいてみずから慰むる者あり。またあるいは物事に当たりて行なうときはけっしてこれを悪事と思わず、毫も心に恥ずるところなきのみならず、一心一向に善きことと信じて、他人の異見などあれば、かえってこれを怒り、これを怨むほどにありしことにても、年月を経て後に考うれば、大いにわが不行届きにて心に恥じ入ることあり。
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『学問のすゝめ』十四編・心事の棚卸し・時を計ること寛に過ぎ事を視ること易に過ぎたる罪田舎の書生、国を出ずるときは、難苦を嘗めて三年のうちに成業とみずから期したる者、よくその心の約束を践みたるや。無理な才覚をして渇望したる原書を求め、三ヵ月の間にこれを読み終わらんと約したる者、はたしてよくその約のごとくしたるや。有志の士君子「某が政府に出ずれば、この事務もかくのごとく処し、かの改革もかくのごとく処し、半年の間に政府の面目を改むべし」とて、再三建白のうえようやく本望を達して出仕の後、はたしてその前日の心事に背かざるや。貧書生が「われに万両の金あれば、明日より日本国中の門並みに学校を設けて家に不学の輩なからしめん」と言う者を、今日良縁によりて三井・鴻ノ池の養子たらしむることあらば、はたしてその言のごとくなるべきや。この類の夢想を計れば枚挙に遑あらず。みな事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛に過ぎ、事を視ること易に過ぎたる罪なり。