学問のすゝめ / 十三編・怨望の人間に害あるを論ず・御殿に悪事の盛んなること断じて知るべし
なお一歩を進めて怨望嫉妬の極度に至りては、毒害の沙汰もまれにはなきにあらず。古来もしこの大悪事につきその数を記したるスタチスチクの表ありて、御殿に行なわれたる毒害の数と、世間に行なわれたる毒害の数とを比較することあらば、御殿に悪事の盛んなること断じて知るべし。怨望の禍豈恐怖すべきにあらずや。
書き下し
なお一歩を進めて怨望嫉妬の極度に至りては、毒害の沙汰もまれにはなきにあらず。古来もしこの大悪事につきその数を記したるスタチスチクの表ありて、御殿に行なわれたる毒害の数と、世間に行なわれたる毒害の数とを比較することあらば、御殿に悪事の盛んなること断じて知るべし。怨望の禍豈恐怖すべきにあらずや。
現代語訳
なお一歩進めて怨望と嫉妬の極みに至っては、毒害の沙汰もまれにはないことではありません。古来もしこの大悪事についてその数を記した統計の表があって、御殿で行われた毒害の数と世間で行われた毒害の数とを比べることがあれば、御殿に悪事が盛んなことは断じて知れるでしょう。怨望の禍いはどうして恐れずにいられましょうか。
解説
閉じた場所での怨望が、毒害にまで至ると述べられます。ここで統計という言葉が使われるのが目を引きます。もし件数の表があれば、御殿と世間で比べられるはずだ、と。実際の数字はないので断定はできませんが、比べるという発想そのものが新しい。印象ではなく件数で悪を測ろうとする姿勢が、この時期の福沢の特徴として現れています。
この章句が説くこと
毒害統計比較閉鎖恐怖
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