墨子 / 兼愛中
然而今天下之士君子曰:然,乃若兼則善矣。雖然,不可行之物也,譬若挈泰山越河濟也。子墨子言:是非其譬也。夫挈泰山而越河濟,可謂勇健有力矣。自古及今,未有能行之者也。况乎兼相愛、交相利則與此異,古者聖王行之。何以知其然?
新字:然而今天下之士君子曰:然,乃若兼則善矣。雖然,不可行之物也,譬若挈泰山越河済也。子墨子言:是非其譬也。夫挈泰山而越河済,可謂勇健有力矣。自古及今,未有能行之者也。況乎兼相愛、交相利則与此異,古者聖王行之。何以知其然?
書き下し
然り而して今、天下の士君子曰く、然り、乃ち兼の若きは則ち善し。然りと雖も、行う可からざるの物なり。譬えば泰山を挈げて河濟を越ゆるが若し、と。子墨子言う、是れ其の譬えに非ざるなり。夫れ泰山を挈げて河濟を越ゆるは、勇健にして力有りと謂う可し。古より今に及ぶまで、未だ能く之を行う者有らざるなり。况んや兼ねて相い愛し、交ごも相い利するに乎いてをや。則ち此と異なれり。古者、聖王、之を行えり。何を以て其の然るを知るや。
現代語訳
ところが今、天下の士君子は言う。「そうだ、兼というのは善い。しかし実行できないものだ。たとえば泰山を担いで黄河や済水を越えるようなものだ」。墨子は言う。それは適切なたとえではない。泰山を担いで黄河や済水を越えるのは、勇壮で力があるとはいえよう。しかし昔から今まで、それをやってのけた者はいない。まして兼ねて互いに愛し交わって互いに利することは、それとは違う。昔の聖王はこれを実行した。なぜそう分かるのか。
解説
反論のたとえを、たとえの選び方から批判します。泰山を担いで河を越えることは、誰も一度もやったことがない。だが兼愛は聖王が現に実行した。前例のないことと、前例のあることを同じ「不可能」で括るな、という指摘です。実行可能性の議論では、比較の対象が正しいかどうかが先に問われる——提案が「無理だ」と言われたとき、その「無理」がどの種類かを確かめる作法として使えます。
この章句が説くこと
実行可能性比較前例たとえ反論
関連する章句
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『墨子』兼愛中子墨子曰く、然り、乃ち兼の若きは則ち善し。然りと雖も、天下の難物、故に於てなり。子墨子言いて曰く、天下の士君子、特に其の利を識らず、其の故を辯ぜざるなり。今、夫の城を攻め野に戰い、身を殺して名を為すが若きは、此れ天下の百姓の皆な難しとする所なり。茍くも君、之を説べば、則ち士衆、能く之を為す。况んや兼ねて相い愛し、交ごも相い利するに於てをや。則ち此と異なれり。夫れ人を愛する者は、人も必ず從いて之を愛す。人を利する者は、人も必ず從いて之を利す。人を惡む者は、人も必ず從いて之を惡む。人を害する者は、人も必ず從いて之を害す。此れ何の難きことか之れ有らん。特に上、以て政を為さず、士、以て行を為さざる故なり。
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