学問のすゝめ / 十二編・演説の法を勧むるの説・学問は悉皆海に流れて
学問はただ読書の一科にあらずとのことは、すでに人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔或る朱子学の書生、多年江戸に修業して、その学流につき諸大家の説を写し取り、日夜怠らずして数年の間にその写本数百巻を成し、もはや学問も成業したるがゆえに故郷へ帰るべしとて、その身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて大回しの船に積み出だせしが、不幸なるかな、遠州洋において難船に及びたり。この災難によりて、かの書生もその身は帰国したれども、学問は悉皆海に流れて心身に付したるものとてはなに一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚はまさしく前日に異なることなかりしという話あり。
書き下し
学問はただ読書の一科にあらずとのことは、すでに人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔或る朱子学の書生、多年江戸に修業して、その学流につき諸大家の説を写し取り、日夜怠らずして数年の間にその写本数百巻を成し、もはや学問も成業したるがゆえに故郷へ帰るべしとて、その身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて大回しの船に積み出だせしが、不幸なるかな、遠州洋において難船に及びたり。この災難によりて、かの書生もその身は帰国したれども、学問は悉皆海に流れて心身に付したるものとてはなに一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚はまさしく前日に異なることなかりしという話あり。
現代語訳
学問がただ読書の一科ではないということは、すでに人の知るところですから今これを論じるには及びません。学問の要は活用にあるだけです。活用のない学問は無学に等しい。昔、ある朱子学の書生が、長年江戸で修業して、その学派について諸大家の説を写し取り、日夜怠らず数年の間にその写本が数百巻となり、もはや学問も成就したから故郷へ帰ろうと、その身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて回船に積み出したところ、不幸にも遠州灘で難船に遭いました。この災難によって、その書生は身は帰国したものの、学問はことごとく海に流れ、心身に付いたものは何一つなく、いわゆる本来無一物で、その愚かさはまさしく以前と変わらなかったという話があります。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十二編・演説の法を勧むるの説・わが輩の学問は東京に残し置きたり今の洋学者にもまたこの懸念なきにあらず。今日都会の学校に入りて読書講論の様子を見れば、これを評して学者と言わざるを得ず。されども今にわかにその原書を取り上げてこれを田舎に放逐することあらば、親戚、朋友に逢うて「わが輩の学問は東京に残し置きたり」と言い訳するなどの奇談もあるべし。
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『学問のすゝめ』二編・端書・文字は学問をするための道具文字は学問をするための道具にて、譬えば家を建つるに槌・鋸の入用なるがごとし。槌・鋸は普請に欠くべからざる道具なれども、その道具の名を知るのみにて家を建つることを知らざる者は、これを大工と言うべからず。まさしくこのわけにて、文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者は、これを学者と言うべからず。いわゆる「論語よみの論語しらず」とはすなわちこれなり。わが国の『古事記』は暗誦すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と言うべし。経書・史類の奥義には達したれども、商売の法を心得て正しく取引きをなすこと能わざる者は、これを帳合いの学問に拙き人と言うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金を費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎き人なり。
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『学問のすゝめ』十二編・演説の法を勧むるの説・沈深なるは淵のごとく活発なるは飛鳥のごとく方今わが国民においてもっとも憂うべきはその見識の賤しきことなり。これを導きて高尚の域に進めんとするはもとより今の学者の職分なれば、いやしくもその方便あるを知らば力を尽くしてこれに従事せざるべからず。しかるに学問の道において、談話、演説の大切なるはすでに明白にして、今日これを実に行なう者なきはなんぞや。学者の懶惰と言うべし。人間の事には内外両様の別ありて、両ながらこれを勉めざるべからず。今の学者は内の一方に身を委して、外の務めを知らざる者多し。これを思わざるべからず。私に沈深なるは淵のごとく、人に接して活発なるは飛鳥のごとく、その密なるや内なきがごとく、その豪大なるや外なきがごとくして、はじめて真の学者と称すべきなり。
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『学問のすゝめ』二編・端書・飯を食う字引これらの人物は、ただこれを文字の問屋と言うべきのみ。その功能は飯を食う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり。ゆえに世帯も学問なり、帳合いも学問なり、時勢を察するもまた学問なり。なんぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問と言うの理あらんや。
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『学問のすゝめ』二編・端書・無形の学問と有形の学問学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。心学、神学、理学等は形なき学問なり。天文、地理、窮理、化学等は形ある学問なり。いずれにてもみな知識見聞の領分を広くして、物事の道理をわきまえ、人たる者の職分を知ることなり。知識見聞を開くためには、あるいは人の言を聞き、あるいはみずから工夫を運らし、あるいは書物をも読まざるべからず。ゆえに学問には文字を知ること必要なれども、古来世の人の思うごとく、ただ文字を読むのみをもって学問とするは、大なる心得違いなり。
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『学問のすゝめ』十編・前編のつづき、中津の旧友に贈る・飯を炊き風呂の火を焚くも学問なり学問するには、その志を高遠にせざるべからず。飯を炊き、風呂の火を焚くも学問なり。天下の事を論ずるもまた学問なり。されども一家の世帯は易くして、天下の経済は難し。およそ世の事物、これを得るに易きものは貴からず。物の貴き所以はこれを得るの手段難ければなり。私に案ずるに、今の学者あるいはその難を棄てて易きにつくの弊あるに似たり。昔封建の世においては、学者あるいは所得あるも、天下の事みなきりつめたる有様にて、その学問を施すべき場所なければ、やむをえずして学びしうえにもまた学問を勉め、その学風はよろしからずといえども、読書に勉強して、その博識なるは今人の及ぶところにあらず。今の学者はすなわち然らず。したがって学べばしたがってこれを実地に施すべし。