学問のすゝめ / 十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・実に極楽の有様を模写したるがごとし
かく人民を子供のごとく、牛羊のごとく取り扱うといえども、前段にも言えるとおり、そのはじめの本意は必ずしも悪念にあらず、かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直きこと矢のごとく、己が心を推して人に及ぼし、民を撫するに情愛を主とし、饑饉には米を給し、火事には銭を与え、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上の徳化は南風の薫ずるがごとく、民のこれに従うは草の靡くがごとく、その柔らかなるは綿のごとく、その無心なるは木石のごとく、上下合体ともに太平を謡わんとするの目論見ならん。実に極楽の有様を模写したるがごとし。
書き下し
かく人民を子供のごとく、牛羊のごとく取り扱うといえども、前段にも言えるとおり、そのはじめの本意は必ずしも悪念にあらず、かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直きこと矢のごとく、己が心を推して人に及ぼし、民を撫するに情愛を主とし、饑饉には米を給し、火事には銭を与え、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上の徳化は南風の薫ずるがごとく、民のこれに従うは草の靡くがごとく、その柔らかなるは綿のごとく、その無心なるは木石のごとく、上下合体ともに太平を謡わんとするの目論見ならん。実に極楽の有様を模写したるがごとし。
現代語訳
このように人民を子供のように、牛や羊のように取り扱うとはいえ、前段でも言った通り、そのはじめの本意は必ずしも悪い心ではなく、あの実の父母が実の子供を養うような趣向です。第一番に国君を聖なる明君と定め、賢く正しい士を挙げてこれを補佐させ、一片の私心もなく半点の我欲もなく、清いこと水のごとく、真っ直ぐなこと矢のごとく、自分の心を推して人に及ぼし、民をいたわるに情愛を主とし、飢饉には米を給し、火事には銭を与え、扶助し救い育てて衣食住の安楽を得させ、上の徳の感化は南風が薫るようで、民がこれに従うのは草が靡くよう、その柔らかさは綿のごとく、その無心さは木や石のごとく、上下が一体となってともに太平を歌おうという目論見でしょう。実に極楽のありさまを写したようなものです。
解説
この章句が説くこと
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