学問のすゝめ / 十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・名分の本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず
第八編に、上下貴賤の名分よりして夫婦・親子の間に生じたる弊害の例を示し、「その害の及ぶところはこのほかにもなお多し」との次第を記せり。そもそもこの名分のよって起こるところを案ずるに、その形は強大の力をもって小弱を制するの義に相違なしといえども、その本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず。畢竟世の中の人をば悉皆愚にして善なるものと思い、これを救い、これを導き、これを教え、これを助け、ひたすら目上の人の命に従いて、かりそめにも自分の了簡を出ださしめず、目上の人はたいてい自分に覚えたる手心にて、よきように取り計らい、一国の政事も、一村の支配も、店の始末も、家の世帯も、上下心を一にして、あたかも世の中の人間交際を親子の間柄のごとくになさんとする趣意なり。
書き下し
第八編に、上下貴賤の名分よりして夫婦・親子の間に生じたる弊害の例を示し、「その害の及ぶところはこのほかにもなお多し」との次第を記せり。そもそもこの名分のよって起こるところを案ずるに、その形は強大の力をもって小弱を制するの義に相違なしといえども、その本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず。畢竟世の中の人をば悉皆愚にして善なるものと思い、これを救い、これを導き、これを教え、これを助け、ひたすら目上の人の命に従いて、かりそめにも自分の了簡を出ださしめず、目上の人はたいてい自分に覚えたる手心にて、よきように取り計らい、一国の政事も、一村の支配も、店の始末も、家の世帯も、上下心を一にして、あたかも世の中の人間交際を親子の間柄のごとくになさんとする趣意なり。
現代語訳
第八編で、上下貴賤の名分から夫婦や親子の間に生じた弊害の例を示し、その害の及ぶところはこのほかにもなお多い、という次第を記しました。そもそもこの名分が起こった由来を考えると、その形は強大な力で小さく弱いものを制するという意味に違いありませんが、その本意は必ずしも悪い心から生じたのではありません。結局、世の中の人をすべて愚かで善良なものと思い、これを救い、これを導き、これを教え、これを助け、ひたすら目上の人の命令に従わせて、かりそめにも自分の考えを出させず、目上の人はたいてい自分が心得たさじ加減でよいように取り計らい、一国の政治も、一村の支配も、店の始末も、家の暮らしも、上下が心を一つにして、まるで世の中の人の交わりを親子の間柄のようにしようという趣旨なのです。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・想像によりてしいて造りたるものなりさて今、一国と言い、一村と言い、政府と言い、会社と言い、すべて人間の交際と名づくるものはみな大人と大人との仲間なり。他人と他人との付合いなり。この仲間付合いに実の親子の流儀を用いんとするもまた難きにあらずや。されども、たとい実には行なわれ難きことにても、これを行のうてきわめて都合よからんと心に想像するものは、その想像を実に施したく思うもまた人情の常にて、すなわちこれ世に名分なるものの起こりて専制の行なわるる所以なり。ゆえにいわく、名分の本は悪念より生じたるにあらず、想像によりてしいて造りたるものなり。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・詰まるところは飼犬に手を噛まるるものあるいはまれに正直なる役人ありて賄賂の沙汰も聞こえざれば、前代未聞の名臣とて一藩中の評判なれども、その実はわずかに銭を盗まざるのみ。人に盗心なければとてさまで誉むべきことにあらず。ただ偽君子の群集するその中に十人並みの人が雑るゆえ、格別に目立つまでのことなり。畢竟この偽君子の多きもその本を尋ぬれば古人の妄想にて、世の人民をばみな結構人にして御しやすきものと思い込み、その弊ついに専制抑圧に至り、詰まるところは飼犬に手を噛まるるものなり。返す返すも世の中に頼みなきものは名分なり。毒を流すの大なるものは専制抑圧なり。恐るべきにあらずや。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・この病に罹る者を偽君子と名づく右のごとく上下貴賤の名分を正し、ただその名のみを主張して専制の権を行なわんとするの原因よりして、その毒の吹き出すところは人間に流行する欺詐術策の容体なり。この病に罹る者を偽君子と名づく。譬えば封建の世に大名の家来は表向きみな忠臣のつもりにて、その形を見れば君臣上下の名分を正し、辞儀をするにも敷居一筋の内外を争い、亡君の逮夜には精進を守り、若殿の誕生には上下を着し、年頭の祝儀、菩提所の参詣、一人も欠席あることなし。その口吻にいわく、「貧は士の常、尽忠報国」またいわく、「その食を食む者はその事に死す」などと、たいそうらしく言い触らし、すはといわば今にも討死せん勢いにて、ひととおりの者はこれに欺かるべき有様なれども、竊に一方より窺えば、はたして例の偽君子なり。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・名分とは虚飾の名目を言うなり右の議論によれば名分は丸つぶれの話なれども、念のためここに一言を足さん。名分とは虚飾の名目を言うなり。虚名とあれば上下貴賤悉皆無用のものなれども、この虚飾の名目と実の職分とを入れ替えにして、職分をさえ守ればこの名分も差しつかえあることなし。すなわち政府は一国の帳場にして、人民を支配するの職分あり。人民は一国の金主にして、国用を給するの職分あり。文官の職分は政法を議定するにあり。武官の職分は命ずるところに赴きて戦うにあり。このほか、学者にも町人にもおのおの定まりたる職分あらざるはなし。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・願うべくして行なわれ難きもの世の名分を主張する人はこの親子の交際をそのまま人間の交際に写し取らんとする考えにて、ずいぶん面白き工夫のようなれども、ここに大なる差しつかえあり。親子の交際はただ智力の熟したる実の父母と十歳ばかりの実の子供との間に行なわるべきのみ。他人の子供に対してはもとより叶い難し。たとい実の子供にても、もはや二十歳以上に至ればしだいにその趣を改めざるを得ず。いわんや年すでに長じて大人となりたる他人と他人との間においてをや。とてもこの流儀にて交際の行なわるべき理なし。いわゆる願うべくして行なわれ難きものとはこのことなり。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・実に極楽の有様を模写したるがごとしかく人民を子供のごとく、牛羊のごとく取り扱うといえども、前段にも言えるとおり、そのはじめの本意は必ずしも悪念にあらず、かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直きこと矢のごとく、己が心を推して人に及ぼし、民を撫するに情愛を主とし、饑饉には米を給し、火事には銭を与え、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上の徳化は南風の薫ずるがごとく、民のこれに従うは草の靡くがごとく、その柔らかなるは綿のごとく、その無心なるは木石のごとく、上下合体ともに太平を謡わんとするの目論見ならん。実に極楽の有様を模写したるがごとし。