学問のすゝめ / 九編・空しく宝を懐にして生涯を渡り
豈ただ数巻の学校本を読み、商となり工となり、小吏となり、年に数百の金を得てわずかに妻子を養いもってみずから満足すべけんや。こはただ他人を害せざるのみ、他人を益する者にあらず。かつ事をなすには時に便不便あり、いやしくも時を得ざれば有力の人物もその力を逞しゅうすること能わず。古今その例少なからず。近くはわが旧里にも俊英の士君子ありしは明らかにわが輩の知るところなり。もとより今の文明の眼をもってこの士君子なる者を評すれば、その言行あるいは方向を誤るもの多しといえども、こは時論の然らしむるところにて、その人の罪にあらず、その実は事をなすの気力に乏しからず。ただ不幸にして時に遇わず、空しく宝を懐にして生涯を渡り、あるいは死しあるいは老し、ついに世上の人をして大いにその徳を蒙らしむるを得ざりしは遺憾と言うべきのみ。
書き下し
豈ただ数巻の学校本を読み、商となり工となり、小吏となり、年に数百の金を得てわずかに妻子を養いもってみずから満足すべけんや。こはただ他人を害せざるのみ、他人を益する者にあらず。かつ事をなすには時に便不便あり、いやしくも時を得ざれば有力の人物もその力を逞しゅうすること能わず。古今その例少なからず。近くはわが旧里にも俊英の士君子ありしは明らかにわが輩の知るところなり。もとより今の文明の眼をもってこの士君子なる者を評すれば、その言行あるいは方向を誤るもの多しといえども、こは時論の然らしむるところにて、その人の罪にあらず、その実は事をなすの気力に乏しからず。ただ不幸にして時に遇わず、空しく宝を懐にして生涯を渡り、あるいは死しあるいは老し、ついに世上の人をして大いにその徳を蒙らしむるを得ざりしは遺憾と言うべきのみ。
現代語訳
どうしてただ数巻の教科書を読み、商人となり職人となり、小役人となって、年に数百の金を得てわずかに妻子を養い、それで自ら満足していられましょうか。これはただ他人を害しないだけで、他人を益する者ではありません。しかも事を行うには時に都合の良し悪しがあり、かりにも時を得なければ力のある人物もその力を発揮できません。昔から今までその例は少なくありません。近くはわが故郷にも優れた人物がいたことは、はっきり私が知るところです。もとより今の文明の目でこの人物を評すれば、その言行には方向を誤ったものも多いでしょうが、それは当時の議論がそうさせたところで、その人の罪ではありません。その実は事を行う気力に乏しくはなかったのです。ただ不幸にして時に遇わず、空しく宝を懐に抱いて生涯を渡り、あるいは死に、あるいは老いて、ついに世の人に大いにその徳を受けさせることができなかったのは、遺憾と言うべきです。
解説
この章句が説くこと
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