学問のすゝめ / 九編・人間の渡世はただ生まれて死するのみ
右のごとく一身の衣食住を得てこれに満足すべきものとせば、人間の渡世はただ生まれて死するのみ、その死するときの有様は生まれしときの有様に異ならず。かくのごとくして子孫相伝えなば、幾百代を経るも一村の有様は旧の一村にして、世上に公の工業を起こす者なく、船をも造らず、橋をも架せず、一身一家の外は悉皆天然に任せて、その土地に人間生々の痕跡を遺すことなかるべし。西人言えることあり、「世の人みなみずから満足するを知りて小安に安んぜなば、今日の世界は開闢のときの世界にも異なることなかるべし」と。このことまことに然り。もとより満足に二様の区別ありてその界を誤るべからず。一を得てまた二を欲し、したがって足ればしたがって不足を覚え、ついに飽くことを知らざるものはこれを欲と名づけ、あるいは野心と称すべしといえども、わが心身の働きを拡めて達すべきの目的を達せざるものはこれを蠢愚と言うべきなり。
書き下し
右のごとく一身の衣食住を得てこれに満足すべきものとせば、人間の渡世はただ生まれて死するのみ、その死するときの有様は生まれしときの有様に異ならず。かくのごとくして子孫相伝えなば、幾百代を経るも一村の有様は旧の一村にして、世上に公の工業を起こす者なく、船をも造らず、橋をも架せず、一身一家の外は悉皆天然に任せて、その土地に人間生々の痕跡を遺すことなかるべし。西人言えることあり、「世の人みなみずから満足するを知りて小安に安んぜなば、今日の世界は開闢のときの世界にも異なることなかるべし」と。このことまことに然り。もとより満足に二様の区別ありてその界を誤るべからず。一を得てまた二を欲し、したがって足ればしたがって不足を覚え、ついに飽くことを知らざるものはこれを欲と名づけ、あるいは野心と称すべしといえども、わが心身の働きを拡めて達すべきの目的を達せざるものはこれを蠢愚と言うべきなり。
現代語訳
右のように一身の衣食住を得てこれに満足すべきものとすれば、人の世渡りはただ生まれて死ぬだけで、その死ぬときのありさまは生まれたときのありさまと変わりません。こうして子孫が伝えていけば、幾百代を経ても一つの村のありさまは元の村のままで、世に公の事業を起こす者もなく、船も造らず橋も架けず、一身一家の外はすべて自然に任せて、その土地に人が生きた痕跡を残すことがないでしょう。西洋人の言葉に、世の人がみな自ら満足することを知って小さな安らぎに安んじたなら、今日の世界は天地開闢のときの世界と変わらなかっただろう、とあります。これはまことにその通りです。もとより満足には二通りの区別があり、その境目を誤ってはなりません。一つを得てまた二つを欲し、足りればそのぶん不足を覚え、ついに飽きることを知らないものは欲と名づけ、あるいは野心と称すべきですが、自分の心身の働きを広げて達すべき目的を達しないものは、これを愚かと言うべきです。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』九編・空しく宝を懐にして生涯を渡り豈ただ数巻の学校本を読み、商となり工となり、小吏となり、年に数百の金を得てわずかに妻子を養いもってみずから満足すべけんや。こはただ他人を害せざるのみ、他人を益する者にあらず。かつ事をなすには時に便不便あり、いやしくも時を得ざれば有力の人物もその力を逞しゅうすること能わず。古今その例少なからず。近くはわが旧里にも俊英の士君子ありしは明らかにわが輩の知るところなり。もとより今の文明の眼をもってこの士君子なる者を評すれば、その言行あるいは方向を誤るもの多しといえども、こは時論の然らしむるところにて、その人の罪にあらず、その実は事をなすの気力に乏しからず。ただ不幸にして時に遇わず、空しく宝を懐にして生涯を渡り、あるいは死しあるいは老し、ついに世上の人をして大いにその徳を蒙らしむるを得ざりしは遺憾と言うべきのみ。
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『学問のすゝめ』九編・路傍に棄てたるものを拾い取るがごとき学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文人の心身の働きを細かに見れば、これを分かちて二様に区別すべし。第一は一人たる身につきての働きなり。第二は人間交際の仲間に居り、その交際の身につきての働きなり。第一 心身の働きをもって衣食住の安楽を致すもの、これを一人の身につきての働きと言う。然りといえども天地間の万物、一として人の便利たらざるものなし。一粒の種を蒔けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は培養せざるもよく成長し、風はもって車を動かすべし、海はもって運送の便をなすべし、山の石炭を掘り、河海の水を汲み、火を点じて蒸気を造れば重大なる舟車を自由に進退すべし。このほか造化の妙工を計れば枚挙に遑あらず。人はただこの造化の妙工を藉り、わずかにその趣を変じてもってみずから利するなり。ゆえに人間の衣食住を得るは、すでに造化の手をもって九十九分の調理を成したるものへ、人力にて一分を加うるのみのことなれば、人はこの衣食住を造ると言うべからず、その実は路傍に棄てたるものを拾い取るがごときのみ。
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『学問のすゝめ』九編・みずから独立の活計を得たりとて得意の色しかるに世の中にはこの蟻の所業をもってみずから満足する人あり。今その一例を挙げん。男子年長じて、あるいは工につき、あるいは商に帰し、あるいは官員となりて、ようやく親類朋友の厄介たるを免れ、相応に衣食して他人へ不義理の沙汰もなく、借屋にあらざれば自分にて手軽に家を作り、家什はいまだ整わずとも細君だけはまずとりあえずとて、望みのとおりに若き婦人を娶り、身の治まりもつきて倹約を守り、子供は沢山に生まれたれども教育もひととおりのことなればさしたる銭もいらず、不時病気等の入用に三十円か五十円の金にはいつも差しつかえなくして、細く永く長久の策に心配し、とにもかくにも一軒の家を守る者あれば、みずから独立の活計を得たりとて得意の色をなし、世の人もこれを目して不覊独立の人物と言い、過分の働きをなしたる手柄もののように称すれども、その実は大なる間違いならずや。
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『学問のすゝめ』十編・前編のつづき、中津の旧友に贈る・人の天性にはなおこれよりも高き約束あり前編に学問の旨を二様に分けてこれを論じ、その議論を概すれば、「人たるものはただ一身一家の衣食を給し、もってみずから満足すべからず、人の天性にはなおこれよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分をもって世のために勉むるところなかるべからず」との趣意を述べたるなり。
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『学問のすゝめ』九編・この人はただ蟻の門人と言うべきのみこの人はただ蟻の門人と言うべきのみ。生涯の事業は蟻の右に出ずるを得ず。その衣食を求め家を作るの際に当たりては、額に汗を流せしこともあらん、胸に心配せしこともあらん、古人の教えに対して恥ずることなしといえども、その成功を見れば万物の霊たる人の目的を達したる者と言うべからず。