学問のすゝめ / 九編・古人の陰徳恩賜と言うべきのみ
古より世にかかる人物なかりせば、わが輩今日に生まれて今の世界中にある文明の徳沢を蒙るを得ざるべし。親の身代を譲り受くればこれを遺物と名づくといえども、この遺物はわずかに地面、家財等のみにて、これを失えば失うて跡なかるべし。世の文明はすなわち然らず。世界中の古人を一体にみなし、この一体の古人より今の世界中の人なるわが輩へ譲り渡したる遺物なれば、その洪大なること地面、家財の類にあらず。されども今、誰に向かいて現にこの恩を謝すべき相手を見ず。これを譬えば人生に必要なる日光、空気を得るに銭を須いざるがごとし。その物は貴しといえども、所持の主人あらず。ただこれを古人の陰徳恩賜と言うべきのみ。
書き下し
古より世にかかる人物なかりせば、わが輩今日に生まれて今の世界中にある文明の徳沢を蒙るを得ざるべし。親の身代を譲り受くればこれを遺物と名づくといえども、この遺物はわずかに地面、家財等のみにて、これを失えば失うて跡なかるべし。世の文明はすなわち然らず。世界中の古人を一体にみなし、この一体の古人より今の世界中の人なるわが輩へ譲り渡したる遺物なれば、その洪大なること地面、家財の類にあらず。されども今、誰に向かいて現にこの恩を謝すべき相手を見ず。これを譬えば人生に必要なる日光、空気を得るに銭を須いざるがごとし。その物は貴しといえども、所持の主人あらず。ただこれを古人の陰徳恩賜と言うべきのみ。
現代語訳
昔から世にこうした人物がいなかったら、私たちが今日に生まれて今の世界にある文明の恵みを受けることはできなかったでしょう。親の財産を譲り受ければこれを遺物と名づけますが、この遺物はわずかに土地や家財だけで、失えば失って跡形もありません。世の文明はそうではありません。世界中の古人を一つの体とみなし、この一体の古人から今の世界の人である私たちへ譲り渡された遺物ですから、その広大さは土地や家財の類ではありません。しかし今、誰に向かって現にこの恩を感謝すべきか、相手が見当たりません。これをたとえれば、人生に必要な日光や空気を得るのに金が要らないようなものです。その物は尊いけれど、持ち主がありません。ただこれを古人の陰徳、恩賜と言うべきだけです。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』九編・生々したる痕跡を遺して後世子孫に伝う右所論のごとく、古の時代より有力の人物、心身を労して世のために事をなす者少なからず。今この人物の心事を想うに、豈衣食住の饒かなるをもってみずから足れりとする者ならんや。人間交際の義務を重んじて、その志すところけだし高遠にあるなり。今の学者はこの人物より文明の遺物を受けて、まさしく進歩の先鋒に立ちたるものなれば、その進むところに極度あるべからず。今より数十の星霜を経て後の文明の世に至れば、また後人をしてわが輩の徳沢を仰ぐこと、今わが輩が古人を崇むがごとくならしめざるべからず。概してこれを言えば、わが輩の職務は今日この世に居り、わが輩の生々したる痕跡を遺して遠くこれを後世子孫に伝うるの一事にあり。その任また重しと言うべし。
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『学問のすゝめ』九編・昨日便利とせしものも今日は迂遠となり何事もこのとおりにて、世の中の有様はしだいに進み、昨日便利とせしものも今日は迂遠となり、去年の新工夫も今年は陳腐に属す。西洋諸国日新の勢いを見るに、電信・蒸気・百般の器械、したがって出ずればしたがって面目を改め、日に月に新奇ならざるはなし。ただに有形の器械のみ新奇なるにあらず、人智いよいよ開くれば交際いよいよ広く、交際いよいよ広ければ人情いよいよ和らぎ、万国公法の説に権を得て、戦争を起こすこと軽率ならず、経済の議論盛んにして政治・商売の風を一変し、学校の制度、著書の体裁、政府の商議、議院の政談、いよいよ改むればいよいよ高く、その至るところの極を期すべからず。試みに西洋文明の歴史を読み、開闢の時より紀元一六〇〇年代に至りて巻を閉ざし、二百年の間を超えて、とみに一八〇〇年代の巻を開きてこれを見ば、誰かその長足の進歩に驚駭せざるものあらんや。ほとんど同国の史記とは信じ難かるべし。然りしこうしてその進歩をなせし所以の本を尋ぬれば、みなこれ古人の遺物、先進の賜なり。
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『学問のすゝめ』九編・洋学のごときはその源遠く宝暦年間にありわが日本の文明も、そのはじめは朝鮮・支那より来たり、爾来わが国人の力にて切磋琢磨、もって近世の有様に至り、洋学のごときはその源遠く宝暦年間にあり〔『蘭学事始』という版本を見るべし〕。輓近外国の交際始まりしより、西洋の説ようやく世上に行なわれ、洋学を教うる者あり、洋書を訳する者あり、天下の人心さらに方向を変じて、これがため政府をも改め、諸藩をも廃して、今日の勢いになり、重ねて文明の端を開きしも、これまた古人の遺物、先進の賜と言うべし。
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『学問のすゝめ』七編・国民の職分を論ず・文明とは人の智徳を進め元来、文明とは、人の智徳を進め、人々身みずからその身を支配して世間相交わり、相害することもなく害せらるることもなく、おのおのその権義を達して一般の安全繁盛を致すを言うなり。さればかの師にもせよ敵討ちにもせよ、はたしてこの文明の趣意に叶い、この師に勝ちてこの敵を滅ぼし、この敵討ちを遂げてこの主人の面目を立つれば、必ずこの世は文明に赴き、商売も行なわれ工業も起こりて、一般の安全繁盛を致すべしとの目的あらば、討死も敵討ちも尤ものようなれども、事柄においてけっしてその目的あるべからず。
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『学問のすゝめ』八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・上下貴賤の名分とて喧しく言いしもこれを天理人情と言わんか、これを文明開化と言わんか。三歳の童子にてもその返答は容易なるべし。数千百年の古より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なるべし。いまその功徳の一、二を挙げて示すこと左のごとし。
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『学問のすゝめ』九編・文明に促されたる人心の変動今やすなわち然らず。前にも言えるごとく、西洋の説ようやく行なわれてついに旧政府を倒し諸藩を廃したるは、ただこれを戦争の変動とみなすべからず。文明の功能はわずかに一場の戦争をもってやむべきものにあらず。ゆえにこの変動は戦争の変動にあらず、文明に促されたる人心の変動なれば、かの戦争の変動はすでに七年前にやみてその跡なしといえども、人心の変動は今なお依然たり。およそ物動かざればこれを導くべからず。学問の道を首唱して天下の人心を導き、推してこれを高尚の域に進ましむるには、とくに今の時をもって好機会とし、この機会に逢う者はすなわち今の学者なれば、学者世のために勉強せざるべからず。 以下十編につづく。