学問のすゝめ / 八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・上下貴賤の名分とて喧しく言いしも
これを天理人情と言わんか、これを文明開化と言わんか。三歳の童子にてもその返答は容易なるべし。数千百年の古より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なるべし。いまその功徳の一、二を挙げて示すこと左のごとし。
書き下し
これを天理人情と言わんか、これを文明開化と言わんか。三歳の童子にてもその返答は容易なるべし。数千百年の古より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なるべし。いまその功徳の一、二を挙げて示すこと左のごとし。
現代語訳
これを天理人情と言うのでしょうか、これを文明開化と言うのでしょうか。三歳の子供でもその返答は容易でしょう。数千百年の昔から和漢の学者先生が上下貴賤の名分といって喧しく言ってきたのも、つまるところは他人の魂を自分の身に入れようという趣向でしょう。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭し、末世の今日に至ってその功徳もようやく現れ、大は小を制し強は弱を圧する風俗となったのですから、学者先生も得意顔になり、神代の神々も周の世の聖賢も、草葉の陰で満足でしょう。今その功徳の一つ二つを挙げて示すこと次の通りです。
解説
笑いの矛先が学者に向きます。上下貴賤の名分という教えの正体は、他人の魂を自分の身に入れることだ、と。長年涙を流して説いた結果できあがったのが、大が小を制し強が弱を圧する風俗でした。それを功徳と呼び、草葉の陰で満足だろうと言うのが痛烈な皮肉です。そして功徳の実例を挙げると予告し、次の段から夫婦と親子の具体的な話に入っていきます。
この章句が説くこと
名分皮肉学者風俗強弱
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『学問のすゝめ』八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・百姓も人なり禁裏さまも人なりさて百姓に至りてはもはや目下の者もあらざれば少し当惑の次第なれども、元来この議論は人間世界に通用すべき当然の理に基づきたるものなれば、百万遍の道理にて、回れば本に返らざるを得ず。「百姓も人なり、禁裏さまも人なり、遠慮はなし」と御免を蒙り、百姓の心をもって禁裏さまの身を勝手次第に取り扱い、行幸あらんとすれば「止まれ」と言い、行在に止まらんとすれば「還御」と言い、起居眠食、みな百姓の思いのままにて、金衣玉食を廃して麦飯を進むるなどのことに至らば如何。かくのごときはすなわち日本国中の人民、身みずからその身を制するの権義なくしてかえって他人を制するの権あり。
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『学問のすゝめ』八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・禁裏さまの心をもって公方さまの身を今もし前の説に反し、「人たる者は理非にかかわらず他人の心に従いて事をなすものなり、わが了簡を出だすはよろしからず」という議論を立つる者あらん。この議論はたして理の当然なるか。理の当然ならばおよそ人と名のつきたる者の住居する世界には通用すべきはずなり。仮りにその一例を挙げて言わん。禁裏さまは公方さまよりも貴きものなるゆえ、禁裏さまの心をもって公方さまの身を勝手次第に動かし、行かんとすれば「止まれ」と言い、止まらんとすれば「行け」と言い、寝るも起きるも飲むも食うもわが思いのままに行なわるることなからん。公方さまはまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由自在に取り扱わん。大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、家老は自分の心をもって用人の身を制し、用人は徒士を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・名分の本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず第八編に、上下貴賤の名分よりして夫婦・親子の間に生じたる弊害の例を示し、「その害の及ぶところはこのほかにもなお多し」との次第を記せり。そもそもこの名分のよって起こるところを案ずるに、その形は強大の力をもって小弱を制するの義に相違なしといえども、その本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず。畢竟世の中の人をば悉皆愚にして善なるものと思い、これを救い、これを導き、これを教え、これを助け、ひたすら目上の人の命に従いて、かりそめにも自分の了簡を出ださしめず、目上の人はたいてい自分に覚えたる手心にて、よきように取り計らい、一国の政事も、一村の支配も、店の始末も、家の世帯も、上下心を一にして、あたかも世の中の人間交際を親子の間柄のごとくになさんとする趣意なり。
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