学問のすゝめ / 九編・路傍に棄てたるものを拾い取るがごとき
学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文人の心身の働きを細かに見れば、これを分かちて二様に区別すべし。第一は一人たる身につきての働きなり。第二は人間交際の仲間に居り、その交際の身につきての働きなり。第一 心身の働きをもって衣食住の安楽を致すもの、これを一人の身につきての働きと言う。然りといえども天地間の万物、一として人の便利たらざるものなし。一粒の種を蒔けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は培養せざるもよく成長し、風はもって車を動かすべし、海はもって運送の便をなすべし、山の石炭を掘り、河海の水を汲み、火を点じて蒸気を造れば重大なる舟車を自由に進退すべし。このほか造化の妙工を計れば枚挙に遑あらず。人はただこの造化の妙工を藉り、わずかにその趣を変じてもってみずから利するなり。ゆえに人間の衣食住を得るは、すでに造化の手をもって九十九分の調理を成したるものへ、人力にて一分を加うるのみのことなれば、人はこの衣食住を造ると言うべからず、その実は路傍に棄てたるものを拾い取るがごときのみ。
書き下し
学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文人の心身の働きを細かに見れば、これを分かちて二様に区別すべし。第一は一人たる身につきての働きなり。第二は人間交際の仲間に居り、その交際の身につきての働きなり。第一 心身の働きをもって衣食住の安楽を致すもの、これを一人の身につきての働きと言う。然りといえども天地間の万物、一として人の便利たらざるものなし。一粒の種を蒔けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は培養せざるもよく成長し、風はもって車を動かすべし、海はもって運送の便をなすべし、山の石炭を掘り、河海の水を汲み、火を点じて蒸気を造れば重大なる舟車を自由に進退すべし。このほか造化の妙工を計れば枚挙に遑あらず。人はただこの造化の妙工を藉り、わずかにその趣を変じてもってみずから利するなり。ゆえに人間の衣食住を得るは、すでに造化の手をもって九十九分の調理を成したるものへ、人力にて一分を加うるのみのことなれば、人はこの衣食住を造ると言うべからず、その実は路傍に棄てたるものを拾い取るがごときのみ。
現代語訳
学問の趣旨を二通りに記して中津の旧友に贈る文。人の心身の働きを細かく見れば、これを分けて二通りに区別できます。第一は一人の身についての働きです。第二は人の交わりの仲間にいて、その交わりの身についての働きです。第一に、心身の働きによって衣食住の安楽をもたらすもの、これを一人の身についての働きと言います。とはいえ天地の間の万物は、一つとして人の便利にならないものはありません。一粒の種を蒔けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は手入れせずともよく成長し、風は車を動かし、海は運送の便をなし、山の石炭を掘り、河海の水を汲み、火をつけて蒸気を作れば重い舟や車を自由に進退させられます。このほか自然の巧みな働きを数えれば数え切れません。人はただこの自然の巧みな働きを借り、わずかにその趣を変えて自分の利とするだけです。ですから人が衣食住を得るのは、すでに自然の手で九十九分の下ごしらえができたものに、人の力で一分を加えるだけのことですから、人がこの衣食住を作ると言ってはならず、実は路傍に捨てられたものを拾い取るようなものです。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十編・前編のつづき、中津の旧友に贈る・人の天性にはなおこれよりも高き約束あり前編に学問の旨を二様に分けてこれを論じ、その議論を概すれば、「人たるものはただ一身一家の衣食を給し、もってみずから満足すべからず、人の天性にはなおこれよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分をもって世のために勉むるところなかるべからず」との趣意を述べたるなり。
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『学問のすゝめ』九編・汝の額の汗をもって汝の食を食らえゆえに人としてみずから衣食住を給するは難きことにあらず。この事を成せばとて、あえて誇るべきにあらず。もとより独立の活計は人間の一大事、「汝の額の汗をもって汝の食を食らえ」とは古人の教えなれども、余が考えには、この教えの趣旨を達したればとていまだ人たるものの務めを終われりとするに足らず。この教えはわずかに人をして禽獣に劣ることなからしむるのみ。試みに見よ。禽獣魚虫、みずから食を得ざるものなし。ただにこれを得て一時の満足を取るのみならず、蟻のごときははるかに未来を図り、穴を掘りて居処を作り、冬日の用意に食料を貯うるにあらずや。
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『学問のすゝめ』九編・人間の渡世はただ生まれて死するのみ右のごとく一身の衣食住を得てこれに満足すべきものとせば、人間の渡世はただ生まれて死するのみ、その死するときの有様は生まれしときの有様に異ならず。かくのごとくして子孫相伝えなば、幾百代を経るも一村の有様は旧の一村にして、世上に公の工業を起こす者なく、船をも造らず、橋をも架せず、一身一家の外は悉皆天然に任せて、その土地に人間生々の痕跡を遺すことなかるべし。西人言えることあり、「世の人みなみずから満足するを知りて小安に安んぜなば、今日の世界は開闢のときの世界にも異なることなかるべし」と。このことまことに然り。もとより満足に二様の区別ありてその界を誤るべからず。一を得てまた二を欲し、したがって足ればしたがって不足を覚え、ついに飽くことを知らざるものはこれを欲と名づけ、あるいは野心と称すべしといえども、わが心身の働きを拡めて達すべきの目的を達せざるものはこれを蠢愚と言うべきなり。
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『学問のすゝめ』十編・前編のつづき、中津の旧友に贈る・学問は米を搗きながらもできるものなりしかるに聞く、近日中律の旧友、学問につく者のうち、まれには学業いまだ半ばならずして早くすでに生計の道を求むる人ありと。生計もとより軽んずべからず。あるいはその人の才に長短もあることなれば、後来の方向を定むるはまことに可なりといえども、もしこの風を互いに相倣い、ただ生計をこれ争うの勢いに至らば、俊英の少年はその実を未熟に残うの恐れなきにあらず。本人のためにも悲しむべし、天下のためにも惜しむべし。かつ生計難しといえども、よく一家の世帯を計れば、早く一時に銭を取りこれを費やして小安を買わんより、力を労して倹約を守り大成の時を待つに若かず。学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を食らい味噌汁を啜り、もって文明の事を学ぶべきなり。
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『学問のすゝめ』十編・前編のつづき、中津の旧友に贈る・飯を炊き風呂の火を焚くも学問なり学問するには、その志を高遠にせざるべからず。飯を炊き、風呂の火を焚くも学問なり。天下の事を論ずるもまた学問なり。されども一家の世帯は易くして、天下の経済は難し。およそ世の事物、これを得るに易きものは貴からず。物の貴き所以はこれを得るの手段難ければなり。私に案ずるに、今の学者あるいはその難を棄てて易きにつくの弊あるに似たり。昔封建の世においては、学者あるいは所得あるも、天下の事みなきりつめたる有様にて、その学問を施すべき場所なければ、やむをえずして学びしうえにもまた学問を勉め、その学風はよろしからずといえども、読書に勉強して、その博識なるは今人の及ぶところにあらず。今の学者はすなわち然らず。したがって学べばしたがってこれを実地に施すべし。
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ず第一 人の働きには、大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽くも、蒸気船を運用するも、鍬をとりて農業するも、筆を揮いて著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽きの仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著書の業に従事するがごときは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然りしこうして、そのこれを弁別せしむるものはなんぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と言う。ゆえにいわく、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。