学問のすゝめ / 八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・姑の鑑遠からず嫁の時にあり
豈これを人間家内の道と言うべけんや。余かつて言えることあり。「姑の鑑遠からず嫁の時にあり」と。姑もし嫁を窘しめんと欲せば、己がかつて嫁たりし時を想うべきなり。右は上下貴賤の名分より生じたる悪弊にて、夫婦親子の二例を示したるなり。世間にこの悪弊の行なわるるははなはだ広く、事々物々、人間の交際に浸潤せざるはなし。なおその例は次編に記すべし。
書き下し
豈これを人間家内の道と言うべけんや。余かつて言えることあり。「姑の鑑遠からず嫁の時にあり」と。姑もし嫁を窘しめんと欲せば、己がかつて嫁たりし時を想うべきなり。右は上下貴賤の名分より生じたる悪弊にて、夫婦親子の二例を示したるなり。世間にこの悪弊の行なわるるははなはだ広く、事々物々、人間の交際に浸潤せざるはなし。なおその例は次編に記すべし。
現代語訳
どうしてこれを人の家の中の道と言えましょうか。私はかつて言ったことがあります。姑の手本は遠くにない、自分が嫁だったときにある、と。姑がもし嫁を苦しめようと思うなら、自分がかつて嫁だったときを思い起こすべきです。右は上下貴賤の名分から生じた悪弊で、夫婦と親子の二つの例を示したものです。世間にこの悪弊が行われるのは非常に広く、あらゆる物事に、人の交わりに浸み込まないところがありません。なおその例は次の編に記しましょう。
解説
八編の結びに、一つの箴言が置かれます。姑の手本は遠くにない、自分が嫁だったときにある。詩経の句をもじった形で、苦しめられた側が苦しめる側になる循環を断つ手がかりを示しています。相手の立場に立て、という抽象論ではなく、あなたは既に経験しているはずだ、という言い方が具体的です。そして名分の悪弊はこの二例に留まらないと述べ、九編へ続きます。
この章句が説くこと
姑循環経験箴言名分
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『墨子』明鬼下今、無鬼を執る者曰く、「鬼神なる者は、固より有ること無し」と。旦暮に以て天下に教誨を為し、天下の衆を之れ疑わしめ、天下の衆をして皆な鬼神の有無の别に疑惑せしむ。是を以て天下亂る。是の故に子墨子曰く、今、天下の王公大人・士君子、實に将に天下の利を興し、天下の害を除かんことを求め欲せば、故に當に鬼神の有ると無きとの别、以て将に此を眀察せざる可からざる者と為すべきなり。既に鬼神の有無の别を以て察せざる可からずと為し已わる。然らば則ち吾れ此を眀察するを為すに、其の説、将に奈何にして可ならんとするや。子墨子曰く、是れ天下の以て有ると無きとを察知する所の道なる者と、必ず衆の耳目の實を以て有無を知るを儀と為す者なり。請に之を聞き之を見るに惑わば、則ち必ず以て無しと為さん。是くの若くんば何ぞ嘗みに一鄉一里に入りて之を問わざる。古より以て今に及ぶまで、生民より以來の者、亦た嘗て鬼神の物を見、鬼神の聲を聞くこと有らば、則ち鬼神、無しと謂う可けんや。若し聞く莫く見る莫くんば、則ち鬼神、有りと謂う可けんや。
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論語・為政篇子曰く、「故きを温めて新しきを知らば、以て師と為るべし。」
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尚書・秦誓猷ほ兹の黃髪に詢わば、則ち愆つ所罔からん。
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『後世への最大遺物』第二回・心のままを書けばそれが文学これはまったく外からの雑りのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。そうして、かくも有名なる本は何であるかというと、無学者の書いた本であります。それで、もしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵えた神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はどれだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず、後世の人も実に喜んで読みます。バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります。それだによって、われわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持ったならば、実に文学者になれぬ人はないと思います。
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葉隠・聞書第十一多久圖書病中、嬉野十左衞門見舞ひ申され候へば、「御子息美作(みまさか)殿御器量にて候。」と申され候へば、「器量にても未だ功が入(い)らず候。我等は若輩の時分、日峯(にっぽう)様より奉行中への中使(なかづかい)仰付けられ、御取次仕り候が、今存じ候に、さてさて功に成る事共にて候。いづれ功を積み候はでは、御用に立ちがたく候。」と御申し候由。
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『正法眼蔵随聞記』巻三我身も田園等を持たる時もありき、亦財宝を領せし時もありき、彼の時の身心と、此のころ貧ふして衣盂にともしき時とを比するに、当時の心すくれたりと覚ゆる、是れ現證なり亦云く、